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②19歳の歌姫ヘイリー・スタインフェルドが歌う「性的なほのめかし」?

優れたポップ表現とはあらゆる社会的な抑圧から市井の人々を解放するものだ。少なくとも市井の人々が社会的な抑圧から脱皮するためのきっかけやヒントを提示するものだ。という視点があります。ただ、これは例えば、政治的なスローガンを持った音楽や映画や小説が何かしらのプロパガンダとして人々を扇動する、という意味ではありません。むしろ逆だとさえ言える。まあ、ここ最近はプロパガンダ的なスローガン表現がどこか優勢な気もしますが、そこは気にしても仕方がない。そもそも優れたポップ表現というのは、何かしらの答えを用意するものではありません。何かしらの正解を用意することは短期的には変化の触媒として機能するかもしれない。しかし、すぐにドグマ化してしまい、状況をさらにスタティックなものにしてしまう可能性が高い。誰もがそのひとつの正解に飛びついてしまうわけですから。優れたポップ表現というのは100人の受け手をひとつに束ねて、ひとつの方向性に向かわせるものではありません。受け手が100人いたとすれば、それぞれが個別の100個のヒントや可能性をその表現から見出す、そんな風にいくつもの解釈に開かれている表現こそが優れたポップ表現なのです。つまり、優れたポップ表現というのは、「誰もが当たり前のように感じているようだけれども、それって本当なの?」という疑問の提示であり、「例えば、こんな別のやり方や視点もあるんじゃないの?」というオプションの提示です。受け手の主体的な選択や自由な想像力を担保しつつ、「じゃあ、自分としてはこんな風に考えてみよう、行動してみよう」という受け手の能動性を猛烈に刺激するものなのです。もっともわかりやすい例がデヴィッド・ボウイです。彼はヴィクトリア王朝的な保守的な価値観がいまだ支配的だった60年代から活動を始め、ジェンダーやセックスの問題をはじめとして既存の常識やモラルに揺さぶりをかけ続けました。敢えて世の中からタブー視されているモチーフを選び、疑問とオプションを提示し続けた。答えではなく。デヴィッド・ボウイの遺作『★』には、彼のそういったスタイルについての種明かしとも言うべき象徴的なラインがあります。「Saying no but meaning yes」ーーつまり、NOと言い続けることで、何とかしてYESを見出すこと。疑問を提示し続けることによって、何かしらの解決を模索すること。そのラインが歌われている曲のタイトルは、“アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ”ーー意訳すれば、「すべてを明かすわけにはいかないな」です。つまり、僕からはヒントを投げ掛けることは出来ても、そこから答えを見出すのは、あなたたち一人ひとりなんだ、ということ。David Bowie / I Can't Give Everything Away

③『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、その可能性の中心を探る

①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容現在、この島国におけるポップ音楽についての「書き手」のスタイルというのは、多岐に渡っている。単純に肩書きとしても、音楽評論家、音楽ライター、音楽ジャーナリスト、批評家――当の本人が自らの肩書きにどの程度、意識的かどうかは置いておいたとしても、これまた多岐に渡るのは間違いない。だが、受け手側の大半に関しては、おそらくはそうしたまったく違った役割と意識、スタイルをもった書き手を、ただ十羽ひと絡げに「音楽ライター」というフォルダに投げ込んでいるという現状がある。そのフォルダの中から、信頼を置ける評論スタイルを持った書き手だけを取り出して、その言説に耳を傾ける――ここまではとてもリーズナブルだ。とても健康的だと言っていい。だが、同時に、個々の「音楽ライター」が提示する音楽テイストが自分自身のテイストと似通っている場合に、その書き手を信頼するというメカニズムも確かに存在する。その結果として、①人気のある作家や作品を主にそのドメインとする書き手に多くの支持が集まる、②限られたジャンルやテイストを自らのドメインとして提示している書き手に一定のロイヤリティの高い支持が集まる――こうした現象が存在することは否めない。つまり、これはその是非はさておき、現状、「音楽ライター」に期待されている役割がテイスト・メイカー/キュレーターだということの証明でもある。だが、柴那典という書き手は、そうした受容とは別の場所に自らを置くことを意識的に選択した代表的な作家だ。詳しくは以下の対話で語られているが、こうした選択は「音楽評論」の現状に対する彼の批評的な観察から成された結果でもある。ただ、筆者ほどではないにせよ、おそらく柴那典という書き手は、現状、少しばかり読み手を選ぶ書き手でもあるだろう。その主な理由はふたつ。ひとつには、彼自身が意識している読み手というのは、従来のサブカル的な「音楽ファン」ではないから。もっと開かれた地平に対して語りかけようとする彼のスタンスは、時として「音楽ファン」からのバックラッシュを引き起こす。これはあるポイントにおいては理不尽で、あるポイントにおいてはリーズナブルだ(というのが筆者の私見である)。もうひとつの理由は、彼の出自が「ロキノン」だから。これはかなり理不尽なリアクションだと言うべきだろう。何より現在の柴那典のテクストの大半と、彼の出自との関連はかなり希薄だからだ。と同時に、この2017年現在、かつてあるひとつの傾向を持った音楽評論のスタイルの表象として名付けられた「ロキノン」という呼び名は、その母体である企業組織が評論よりも興業にその(批評)活動の軸を移したことによって、今では「ロッキン」という呼び名に取って代わることになった。よって、このふたつ目のポイントが解消されるのは時間の問題だろう。いずれにせよ、本企画パート3である以下の対話は、そうした非常に込み入った状態にある「音楽評論家」「音楽ジャーナリスト」「音楽ライター」といった言葉を、その役割とスタイルにおいて、きちんと仕分け/ソーティングしようとする意図に基づいたもの。その過程から、「柴那典」という書き手のアイデンティティをさらに明確にしようとするものだ。以下の対話には、湯川れい子、中村とうよう、渋谷陽一、中山康樹、高橋健太郎、鹿野淳、宇野維正、磯部涼、宗像明将、柳樂光隆といった語り部たちの名前も具体的に挙がっているが、その目的はそれぞれのスタイルに優劣をつけようとするものではなく、その比較の中から浮かび上がる、より視界の開けたパースペクティヴを提示するためにある。このパート3でも、「柴那典」というアイデンティティをより明確にするために、筆者は意識的に自身と彼との対立構造を煽るというインタヴュー手法を取っている。ただパート1から読み進めてもらってきた読者はもはやお気付きかもしれないが、こうした対立の構造の中にはいくつもの共通する視点がある。大きく言うと、ふたつ。ひとつは、もし仮にポップ音楽を対象にした批評が楯突こうとしているものがあるとすれば、それは「テイスト」だ、という認識だ。好き/嫌い、自分の趣味に合っている/合っていない、という判断。それは、言うまでもなく、表現から社会性やアクチュアリティを根こそぎ奪ってしまい、すべてをサブカル的な磁場に貶める最大の要因でもある。もうひとつは「大衆の欲望を肯定する」という態度だろう。敢えて蛇足なことを言うなら、これは柴那典と筆者に共通する出自を計らずも浮き彫りにするものだ。極めて乱暴に言うなら、「大衆の欲望を肯定する」というのは、何よりも渋谷陽一特有の態度であり、それは彼のルーツにある吉本隆明から受け継いだものだからだ。ただ勿論、そこに対しても、対立の構造はある。もし興味を持ってもらえるようなら、その対立の構図から何かしらの思考を導き出してもらえれば幸いだ。勿論、どちらが父親殺しという呪いに縛られているのかを無責任に楽しんでもらっても構わない。いずれにせよ、「柴那典」という書き手のアイデンティティを浮き彫りにしようという以下の対話は、最終的には思わぬ場所にまで辿り着くことになった。おそらくすべての読者が想像もしたことのない場所まで。最後まで読み進めることで何かしらの刺激を受け取ってもらうことが出来たのなら、編集者/インタヴュアー冥利に尽きる。そして、『ヒットの崩壊』を皮切りに〈shiba710〉というプロデューサー・タグの刻印された、いくつもの柴那典のテキストに改めて当たってほしい。

②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容

書物というものは何度も読み直されなければならない。そうした視点の下、音楽ジャーナリスト柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』という書物を、著者自身の言葉を借りながらまた別な角度から見てみよう、そんな目的意識から出発した本企画、パート2である。パート1の内容をごく簡単にレジュメするなら、それは主に彼の著作『ヒットの崩壊』がそのタイトルとは裏腹に、「ヒットの崩壊、その後」に起った、さまざまな変化に対する希望的観測を軸に書かれたことを示そうとするもの。パート1を未読の方はまず以下のリンクから読み進めてほしい。①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?つまり、パート1における対話は、「『ヒットの崩壊』の読み方」を巡るものだ。そして、このパート2から語られているのは、主に「柴那典の読み方」だと思っていただきたい。まず確認しておこう。誰もが「柴那典」という書き手に対して認めるだろう圧倒的な優位性とは、彼が有するデジタル・ネイティヴ的な視点にほかならない。その鋭利な問題意識とそれを担保する膨大な情報量は、数多くのポップ音楽についての書き手と比べれば、間違いなく抜きんでている。彼自身、自らを「ネットでエンパワーメントされた書き手」と認めているが、それは単に彼がオンラインを主戦場にすることでその存在感を増してきたことだけを指すものではない。以下の対話の中で、柴那典は「2008年の初頭にブログを始めた時に、自分のスタンスとして、誰かを貶めない、できるだけ悲観的にならないと決めた」と語っている。この言葉は書き手としての彼のアイデンティティのひとつを明確に示すものだ。ただ、それが副次的に引き起こす作用として、彼には「八方美人」というタグ付けがなされる場合もある。彼が取り扱うモチーフがどちらかと言えばポピュラリティを持った事象に向けられることが多いせいもあって、一部ではそうしたパブリック・イメージが固定しつつあるかもしれない。だが、柴那典が書くものの興味の大半は、そのモチーフにせよ、テーマにせよ、その視点にせよ、我々の生活にインターネットが一般化する以前、今から20年前には起りえなかった事象に対して向けられている。その一点において、彼の仕事は常に一貫している。そうした意味からしても、ポップ音楽を扱うこの島国のすべての書き手の中で、柴那典こそが誰よりもネット時代の申し子なのはまず間違いない。勿論、それは諸刃の剣でもあるだろう。そうした彼のアイデンティティは、彼自身の選択であると同時に、ネットというアーキテクチャによって、より先鋭化させられたものだと見なすことも出来るからだ。だが、筆者の知る限り、あるひとりの書き手/言論家がその活動の拠点と読み手とのコミュニケーションの場をオンラインにおくことによって、そのテクストの内容や語り口のみならず、書き手自身のアイデンティティさえも根こそぎ変えてしまうことに、柴那典ほど意識的な書き手はいない。彼が繰り返し使っている「最適化の罠」というコピーが示す通り、柴那典という書き手は、ネット社会のさまざまな局面における可能性と危険性の両方を凝視し続けながら、自らをその場にさらすことによって、自らの変容さえも仮説立証の実験台として観察し続けている。筆者の私見からすれば、彼が書くものの可能性、そのもっともエキサイティングなポイントは、そこにある。柴那典が紡ぎ出すあらゆるテクストに触れることの最大の快楽とは、その内容や読後感だけでなく、柴那典という作家がそうした実験の結果をどのように自らのペンに落とし込もうとしているかを読み解くことだろう。敢えて不謹慎な言い方をするなら、そうした視点から読み解く柴那典のテクストはやたら滅法面白い。おそらく以下の対話も、そうした視点から読み進んでもらえれば、かなりの発見があるはずだ。パート1同様、「柴那典」という特異な書き手のアイデンティティをより明確にするために、インタヴュアーである筆者は意識的にインタヴュイーである柴那典との対立構造を煽る形で対話を進めている。このパートにおける対立の構図は主に、個人やその集積である社会がインターネットというアーキテクチャに長年接し続けることによって巻き起こる変容についての是非にほかならない。では、引き続きお楽しみいただきたい。

①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?

2016年に出版された音楽関係の書物の中でももっとも注目された作品のひとつとして、音楽ジャーナリストの柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』の名前を挙げることに異を唱える者はいないだろう。乱暴に言うなら、彼の著作『ヒットの崩壊』は、主にゼロ年代から2010年代のポップ産業における、ヒットを生み出す構造の変化にフォーカスを当てた書物であり、そうした構造変化と共に、ポップ音楽とその受け手であるリスナーの関係性そのものにいくつもの変容が生まれたことを示すものでもある。と同時に、『ヒットの崩壊』というタイトルとは裏腹に、多くの市井の人々が自らが暮らす時代を考える上での「対話のプラットフォーム」として機能するだろう、新たな「ヒットの誕生」を祝福する書物でもある。つまるところ、この『ヒットの崩壊』という作品は今に対する厳しい批評である以上に、これからの未来に対する可能性とヒントをちりばめた「希望の書」でもあるということ。それゆえ、本稿を企画するに至る当初の発想は、彼がその著作『ヒットの崩壊』で何よりも書こうと務めた「ヒットの崩壊、その後」について語ってもらおう、ということだった。つまり、3回に分けてアップされる本稿の目的は、特にそのタイトルから、「音楽そのものではなく、音楽を取り巻く状況について、しかも悲観的なことばかりが書かれているのではないか?」と感じることで、いまだ本書を手に取っていない読者に対して、この書物が「希望の書」であることを示すこと。そして、音楽を取り巻く状況だけでなく、そこから可視化された新たな才能や音楽に対する著者のエキサイトメントを伝えようとするものでもある。と同時に、既に『ヒットの崩壊』という書物を手に取った人々に対しても、改めてこの書物を読み直すことの提言でもある。もうひとつの目的は、2010年代のポップ・カルチャーを巡る重要な論客のひとりである「柴那典」という書き手のアイデンティティをより明確にすること。より踏み込んだ形での「著者インタヴュー」だと思ってもらえればいい。ここでのインタヴュアーである筆者は自分自身の書き手としてのスタンスを敢えて「柴那典」のそれと比較/対立させ、そこから生まれるコントラストを示すことで、彼のアイデンティティをより明確に浮き彫りにするという手法を取った。明確な目的があったとは言え、必ずしも心地よいだけではなかっただろう対話の席についてくれた彼に、この場を借りて感謝の意を伝えたい。ただ結果的には、これまでもずっと「柴那典」という書き手を支持してきた読者にとっても、少しばかり距離を感じていたかもしれない読者にとっても、何かしらの新たな視点を与える内容になったと自負している。つまり、もしこの記事のしかるべき副題があるとすれば、『柴那典、その可能性の中心』といったところか。それゆえ、この拙稿に目を通していただいた読者に期待するのは、ここで話されたことで何かしら『ヒットの崩壊』という書物を読んだ気分になるのではなく、実際にその原典に触れてほしい、それに尽きる。おそらく『ヒットの崩壊』という書物がまた別な言葉で語りかけてくるはずだ。では、始めてみよう。

⑬『逃げ恥』も星野源も新しいニッポンを夢見る理想的な愛国主義者?

この『逃げ恥』対談記事もここからの二回で取り敢えず終了です。『逃げ恥』放送第一話と第二話を観て、これは面白い! と感じ、第三話と第四話を観るに至り、これはマジでとんでもない! と感じたところから始まったこの短期集中連載。ここからは少しだけ寄り道をしながら、全体のまとめとエピローグです。さあ、『逃げ恥』の最終回、いかがでしたか? これまで我々が語ってきたことがどの程度信憑性があると感じられる結末だったでしょうか。でも、いいんですよ、こんな面倒臭いことは考えなくても。ポップ表現のもっとも重要なポイントは、世知辛い現実は何もかも忘れて、ファンタジーの中に逃避することでもありますから。ただ『逃げ恥』という作品の素晴らしい点は、それを誰よりもわかった上で、語りかけるべきことを語りかけようとしている。無理やり押し付けるのではなく。つまり、大衆の良心と知性と聡明さをどこまでも信じているところにあるわけです。これまでの対話、お時間が許すなら、パート1から。もしお暇でないなら、パート9辺りからでも読んで下さい。特に、世の中で流行ってるかもしんないけど、『逃げ恥』とか興味ないわ、という方にこそ読んでいただきたいです。もし良かったら、まずは以下のリンクからこれまでの会話にも目を通して下さい。■vol.1はこちら■vol.2はこちら■vol.3はこちら■vol.4はこちら■vol.5はこちら■vol.6はこちら■vol.7はこちら■vol.8はこちら■vol.9はこちら■vol.10はこちら■vol.11はこちら■vol.12はこちら

⑪「かもしましょう、新婚感」「出しましょう、親密感」は理想の企業の描写なんです

この『逃げ恥』対談記事もようやく佳境に入ってきました。ここからは我々二人の会話も一気にヒートアップしていきます。みくりと平匡という主人公の二人がどんな障害を乗り越え、どんな成長を果たしていくのか。彼らの言動は、ドラマ『逃げ恥』のもっとも重要なテーマである「雇用」という契約システムの問題とどんな風に絡んでいるのか。それぞれを具体的なシーン分析を通して、見ていきたいと思います。もし良かったら、まずは以下のリンクからこれまでの会話にも目を通して下さい。■vol.1はこちら■vol.2はこちら■vol.3はこちら■vol.4はこちら■vol.5はこちら■vol.6はこちら■vol.7はこちら■vol.8はこちら■vol.9はこちら■vol.10はこちら特に読んでいただきたいのは、みくりが「いいですよ、私は。平匡さんとだったらそういうことしても」という行動に出た、話題のシーンに対する我々の解釈です。ここでの解釈は、ある意味、常に素っ頓狂で、突拍子もないみくりの行動に似て、どうにも理解しがたいロジックかもしれません。でも、こういう視点もある。そんな風に読んでいただければと思います。いずれにせよ、「結婚届や雇用契約書に記載されてない契約システムの外側を描き出そうとしているのが、ドラマ『逃げ恥』なのだ」という我々の解釈が少しくらいは説得力を持って受け取っていただけるかもしれません。では、引き続き楽しんで下さい。

⑩『逃げ恥』みくりは分析的で論理的なのに何故あんなにも素っ頓狂なのか?

■vol.1はこちら■vol.2はこちら■vol.3はこちら■vol.4はこちら■vol.5はこちら■vol.6はこちら■vol.7はこちら■vol.8はこちら■vol.9はこちら田中「まずざっと言うね。確認を兼ねて」小林「どうぞどうぞ」田中「みくりと平匡の共通点というのは、形は違えど、どちらもとても理性的で論理的、かつ合理性を追求する性格だよね? 堅苦しいくらい」小林「そこはわかります」田中「雇用形態を取った契約結婚という、常識やモラルからはあり得ない契約システムをみくりが考え出し、平匡がすんなり受け入れたというのは、つまり、二人が理性や論理性、合理性を何よりも尊重する性格からなわけですよ」小林「感情よりもね。普通の人間なら、好きでもない相手と生活して、世間に夫婦だって公表するなんて、常識やモラルの問題だけじゃなく、感情的にも受け入れられないアイデアですからね」田中「で、その合理性から出たアイデアが現実にぶつかって、右往左往することになる。だよね?」小林「ドラマ前半のすったもんだは、要するに、そういうことですよね」田中「で、二人ともずっと自らの感情を押し殺してきた人間なわけですよ。どんな不条理な現実にぶつかっても、理性で自分自身を納得させ続けてきた」小林「わかります。二人ともすぐに論理や理性で自分の感情を押さえつけようとしちゃう」田中「それがどうにも健気でしょ? チャーミングでしょ?」小林「まあね」田中「泣いちゃうでしょ?」小林「まあね」田中「で、そんな共通点を持ってる二人が、理性や論理では律することの出来ない恋愛という感情に翻弄されることで成長する、それこそが『逃げ恥』の主たるプロットなんですよ」小林「一気に説明しましたね」田中「ただ、そもそも感情とか、欲望というのは、生きる上ではもっとも厄介なものなわけじゃん」小林「まあ、そうですね。それが世の中をややこしくもしてるわけだし」田中「今年2016年のアメリカ大統領選にしたって、倫理や思想、アイデアの対決ではなく、感情や欲望の対決になっちゃったわけでしょ。特に最後は」小林「まあ、今も昔も、世の中全体が感情と欲望に左右されているってことの一端を表象してはいますよね」田中「で、例えば、石田ゆり子が演じる土屋百合は、40代のキャリア未婚女性だよね。彼女って、恋愛感情を自分自身のアイデンティティを揺るがしたり、ともすれば、邪魔をする、煩わしいものとして意識してるでしょ」小林「ですね。まあ、原因は世間にはろくなオトコがいないからなんだけど」田中「と同時に、彼女がそう決めつけてしまってる」小林「で、恋愛の問題から目を反らそうとしてる、と」田中「平匡の場合も、恋愛感情に対しては、彼が何よりも大切にしている合理的で平穏な日常を脅かす煩わしい現象だと位置づけている。そこは百合ちゃんと同じだよね?」小林「わかります。彼の場合、百合ちゃんとは逆で、自分自身に性的な魅力を見出せないっていうのが原因ではありますが」田中「だからこそ、積極的に恋愛からも結婚からも遠ざかろうとして、ずっと生きてきた。自分自身の心の平安を保証する、孤独だけど合理的な生活を追求するために」小林「偏見かもしれないけど、ちょっとエンジニアっぽい発想ですよね。でも、論理的な考え方ですよね」田中「つまり、平匡の合理性というのは、社会が無言のうちに強要する『恋愛/結婚=幸福』っていう不条理な考え方から自分を切り離して、逃げ込む場所だっていうこと」小林「なるほどなるほど。でも、同時に、誰かに必要とされたい、愛されたい、と猛烈に感じているんだけど、その感情を押し殺している」田中「でも、みくりの合理性はまた別なのよ」小林「というと?」田中「平匡の合理性というのは、かなりカリカチュアライズされてはいるけれども、わりと共有される感覚じゃん」小林「まあ、ありがちなオタクっていうか」田中「でも、その切実さっていうのは、確実に彼のチャームでしょ?」小林「まあ、そうですね。それこそが『逃げ恥』の魅力の中心なんだろうし」田中「それに対し、みくりの行動原理というのは、かなり素っ頓狂でしょ。普通の人間からは理解しがたい。すぐに突拍子もないことを考えたり、行動したりする。だよね?」小林「そもそも自分の雇用の問題を解決するために、契約結婚なんてアイデアを考え出す時点で、間違いなく素っ頓狂ですよね。発想としてはあまりに飛躍しすぎてるっていうか」田中「当初は特に平匡に対して恋愛感情を持ってたわけでもないし、アイデアとしても世間的なモラルや常識からは見事に食み出てる」小林「ですね」田中「でも、彼女の中では、ロジカルなプログレッションっていうか、ただの論理の帰結なんですよ。合理的な判断の結果」小林「そういう意味では、筋が通ってる、と」田中「つまり、みくりの合理性というのは、解決に向かうためのメソッドなんですよ」小林「解決に向かうためのメソッド?」田中「彼女はひたすら論理的に考え、ひたすら合理的に行動しさえすれば、道は開かれると考えてる。まあ、ナイーヴすぎる考え方だよね。でも、これまでもずっとそうしてきたわけじゃん」小林「あー、なるほど。でも、その度に小賢しいと言われ、これまでも何度も挫折してきた、と」田中「彼女の論理性、合理性というのは、雇用の問題にしても、コネや情に振り回されたり、女性よりも男性が重用される世の中の不条理さを克服するための剣と盾なんですよ」小林「でも、往々にして、それが誰にも通じない、と」田中「まったく通じない。でも、論理と理性で合理的に考えて、行動することを絶対に諦めないわけじゃん」小林「何度も手を変え、品を替え、トライし続けますよね」田中「その懸命さがどうにも不憫で、どうにもチャーミングなわけじゃないですか」小林「なるほど」田中「ちょっと俺っぽくない? みくりって?」小林「帰着点、そこ?(笑)」田中「これまでの人生で、『あたしはあなたみたいに賢くない』『あなたみたいに強くない』と何度言われてきたことか!」小林「知りませんよ。まあ、口が達者で、常に小賢しいことばかり考えてるのは確かですけど」田中「で、必ず失敗すんじゃん、俺」小林「なんですよねー」田中「世の中は感情や欲望で動いてるのに、いつも論理的に考えて、合理性を追求し、世間の知性とか、聡明さとか、良心に訴えかけようとするでしょ。ホント懲りないわけよ」小林「いつも何かアイデアをひねり出して、それがうまくいかなくなる度に『また策士策に溺れるパターンか!』とか言ってますよね」田中「成長しないんですよ」小林「そのせいで迷惑してますよ、いつも」田中「すいません」小林「でも、やっぱりみくりにしても、あまり周りにはいないタイプかもしれないですね」田中「でも、小さい頃から可愛くて、ずっと周りからチヤホヤされ続けた女子にたまにとんでもなく素っ頓狂な女の子いるじゃん」小林「容姿でのみ判断されて、まったく中身を見てもらえないっていう体験がずっと続くと、そうなっちゃう場合もありますよね」田中「それはそれでひどい話じゃんか」小林「でも、さすがにみくりみたいな女の子はそんなにいない気がしますけどね。ファンタジーですよ」田中「でも、リアリズムなんてクソ喰らえだからさ。現実を描くにはファンタジーの方が適してるわけだから」小林「じゃあ、みくりのかなりレアなキャラ設定は、どんな現実を描くためのものだ、と?」田中「そりゃあ、最初から言ってるように、この格差社会だし、何よりもブラック企業に代表されるように、雇用の現場が血も涙もない契約にのみ縛られてるっていう現状なんじゃないの?」小林「でも、そんな描写、ひとつもないじゃないですか?」田中「いやいやいや、そこが『逃げ恥』というドラマの優れたところなんですよ」小林「というと?」田中「そういうブラックな雇用の現場を克明に描くことで何かしらの批判とか疑問を投げ掛けても、誰も観ないじゃん」小林「つまり、『蟹工船』の時代ではない、と」田中「だからこそ、ラヴ・コメディっていう設定の中に、雇用の現場における理想的な形をこっそりと忍ばせてるんですよ」小林「もう少し具体的に言って下さいよ。例えば?」田中「百合ちゃんを安心させるために二人が理想の夫婦を演じたりするっていうプロットがあるでしょ? あそことか」小林「は? それが理想の雇用の現場の描写ですか?」<続く>

⑨『逃げ恥』のテーマは「自宅で米を使って焼くパン」という会話に隠されていた

ここまではドラマ『逃げ恥』が扱っているトピックは、雇用と結婚という人類が生み出した二大契約システムだ、という視点を前提に進んできましたが、ここからの会話は主に謎解きです。もし良かったら、まずは以下のリンクからこれまでの会話にも目を通して下さい。■vol.1はこちら■vol.2はこちら■vol.3はこちら■vol.4はこちら■vol.5はこちら■vol.6はこちら■vol.7はこちら■vol.8はこちらそれにしても、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を観ていて思いませんか? 何故、みくりの考えることはあんなに素っ頓狂で、すぐに突拍子もない行動に出るのか。何故、みくりには「小賢しい女」というキャラ設定がされたのか。これにはきちんと理由がある。何かをあぶり出し、描き出すための理由が。それ以外にも、『逃げ恥』のあらゆる設定、あらゆる台詞、あらゆる舞台装置、あらゆるディテールは、きちんとした意図があった上で、配置、構築されています。これは見事と言うしかない。このパートではそれについて事細かに見ていこうと思います。もちろん、「眉唾だなー」と思ってもらっても構いません。ただ良かったら、もう一度、『逃げ恥』を観てみて下さい。そこから読者の皆さん、ひとりひとりの正解をみつけていただければ、と。