優れたポップ表現とはあらゆる社会的な抑圧から市井の人々を解放するものだ。少なくとも市井の人々が社会的な抑圧から脱皮するためのきっかけやヒントを提示するものだ。という視点があります。
ただ、これは例えば、政治的なスローガンを持った音楽や映画や小説が何かしらのプロパガンダとして人々を扇動する、という意味ではありません。むしろ逆だとさえ言える。まあ、ここ最近はプロパガンダ的なスローガン表現がどこか優勢な気もしますが、そこは気にしても仕方がない。
そもそも優れたポップ表現というのは、何かしらの答えを用意するものではありません。何かしらの正解を用意することは短期的には変化の触媒として機能するかもしれない。しかし、すぐにドグマ化してしまい、状況をさらにスタティックなものにしてしまう可能性が高い。誰もがそのひとつの正解に飛びついてしまうわけですから。
優れたポップ表現というのは100人の受け手をひとつに束ねて、ひとつの方向性に向かわせるものではありません。受け手が100人いたとすれば、それぞれが個別の100個のヒントや可能性をその表現から見出す、そんな風にいくつもの解釈に開かれている表現こそが優れたポップ表現なのです。
つまり、優れたポップ表現というのは、「誰もが当たり前のように感じているようだけれども、それって本当なの?」という疑問の提示であり、「例えば、こんな別のやり方や視点もあるんじゃないの?」というオプションの提示です。受け手の主体的な選択や自由な想像力を担保しつつ、「じゃあ、自分としてはこんな風に考えてみよう、行動してみよう」という受け手の能動性を猛烈に刺激するものなのです。
もっともわかりやすい例がデヴィッド・ボウイです。彼はヴィクトリア王朝的な保守的な価値観がいまだ支配的だった60年代から活動を始め、ジェンダーやセックスの問題をはじめとして既存の常識やモラルに揺さぶりをかけ続けました。敢えて世の中からタブー視されているモチーフを選び、疑問とオプションを提示し続けた。答えではなく。
デヴィッド・ボウイの遺作『★』には、彼のそういったスタイルについての種明かしとも言うべき象徴的なラインがあります。「Saying no but meaning yes」ーーつまり、NOと言い続けることで、何とかしてYESを見出すこと。疑問を提示し続けることによって、何かしらの解決を模索すること。
そのラインが歌われている曲のタイトルは、“アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ”ーー意訳すれば、「すべてを明かすわけにはいかないな」です。つまり、僕からはヒントを投げ掛けることは出来ても、そこから答えを見出すのは、あなたたち一人ひとりなんだ、ということ。
David Bowie / I Can't Give Everything Away
彼が生涯を通してこうしたスタイルを取り続けた理由は明確です。何故なら、彼が何よりも信じていたのは、自分という作家の独創性、オリジナリティなどではなく、受け手である市井の人々の中に潜んでいる知性と聡明さと良心ーー何よりもリスナーの想像力であり、主体性であり、能動性だったからです。思考と行動という形で「作品」を完成させるのは不特定多数の受け手の存在であり、そのまどろんだままの可能性を扇動することこそがポップの役割だと知っていたからです。
優れた表現はすべての解釈に開かれている。表現を完成させるのは作家ではなく受け手です。作品に本当の意味などありません。作家があらかじめ正解を用意しているわけではない。もしあったとしても、「すべてを明かすわけにはいかない」。もっとも優れた表現は作家さえも超えてしまうもの。もっとも優れた作家とは、自分自身をも超えた作品を作ってしまう人のことです。
だからこそ、デヴィッド・ボウイのような表現者を「天才」という特権的な言葉に閉じこめてしまうことほど反動的な態度はありません。それは神や専制君主を希求してしまう態度と大差ないからです。彼ほど受け手である市井の人々の想像力と行動、知性と聡明さと良心を信頼し続けた作家はいないのですから。
では、当初の命題に戻りましょう。社会的な抑圧とは何か。それは単に国家や為政者、社会全般からの抑圧にはとどまりません。むしろもっとも現代的な抑圧とは、何かしらの理由によって誰もが自分自身の可能性を自ら狭めてしまうことにこそあります。とても慎ましやかに。知らず知らずのうちに。
もっともわかりやすい日常的な例が、ポップ音楽に対する個人の趣味趣向です。例えば、こんな言葉を耳にしたことはありませんか?ーー「これは自分には合わない」。これ、ごく普通に誰もが耳にする言葉だと思うんですが、実はかなり倒錯した発言なんですよ。「自分にはわからない」なら、納得なんですけど。
そもそも「自分」とは記憶という名の情報の入れ物です。それまで外界から受け取ってきた情報の集積が「自分」であり、所謂アイデンティティと呼ばれるものです。つまり、「これは自分には合わない」というのは、恣意的な情報の入れ物でしかない「自分」を盲目的に信仰する態度ということになります。
と同時に、その「自分」というのが常識やモラルのみならず、外界から受け取ってきたありとあらゆる情報の集積であるとするなら、「自分」というのは社会や環境の産物以外の何ものでもないということ。「自分で選んだ」というのはほぼ幻想だと思ってもらった方がいい。むしろ「選ばされた」んです。
つまり、「自分には合わない」=「自分自身のアイデンティティに対する揺るぎない信仰」というのは、自ら進んで環境や社会の奴隷になることとほぼ等しいわけです。勿論、こうした罠から逃れるのは不可能に近い。だからこそ、唯一出来ることと言えば、そうしたメカニズムに意識的であることぐらいだと言えるかもしれません。
だからこそ、多くの優れた表現者や思想家は「まず最初に自分自身を疑え」と言い続けた。「自分」の可能性をもっとも抑圧し、限られた小さなバブルの中へ押し込もうとするもの、それこそが「自分」です。そうした態度とは逆に、「アイデンティティの揺らぎ」にこそ可能性を見出してきたのが前述のデヴィッド・ボウイという作家です。所謂オリジナリティなど呪いでしかない、だからこそ、常に過去の自分を裏切り続けた、それが彼の基本的な行動原理です。
つまり、デヴィッド・ボウイという作家は「あらゆる社会的な抑圧」と闘ってきたと同時に、実のところもっとも厄介な抑圧である「自らのアイデンティティに対する揺るぎない信仰」という近代的な病いと闘い続けた作家でもあるのです。そう、「自分」とやらはホント厄介な存在なんですよ。
しかも、ネットとSNSの一般化に伴い、ありとあらゆる場所でこうした「自らのアイデンティティに対する揺るぎない信仰」は加速度的に進行している。誰もが知らず知らずのうちに、「自分」という壁を作って世の中で起っていることを遮断してしまうことから逃れられなくなってきている。見たいものしか見ない。聴きたいものしか聴かない。読みたいものしか読まない。しかも、自分自身の可能性というものが、そんな風に抑圧されていることにも気付かなくなってしまっている。要するにこれは、とても宗教的な態度なんです。ある意味、新たな中世の到来ですね。
だからこそ、自分自身が何かしら社会的に抑圧されているなどとはつゆとも思わなかった誰かに、その事実にハタと気付かせてしまう、それも優れたポップ表現の役割です。昨年、全国的に大ヒットしたドラマ『逃げ恥』もまた、そんな優れたポップ表現のひとつでした。『逃げ恥』の場合、この「自らのアイデンティティに対する揺るぎない信仰」のことを「自分が自分自身にかけた呪い」という言葉で表現していました。良かったら、こちらの記事も読んでみて下さい。
キュートな19歳の歌姫、ヘイリー・スタインフェルドについて語るはずの本稿の枕としては、かなり長大な風呂敷を広げてしまいました。ようやく本題に指しかかってきました。
今回のテーマは、2010年代の女性ポップ・シンガーによる「セックス表現」です。つまり、50年代におけるエルヴィス・プレスリーの誕生/発見、60年代の性革命を経て、現在ではセックスというテーマは、ポップ・ソングの中でどんな風に取り扱われるようになったのか? それがどれだけエキサイティングな動きなのか?ーーそれについて考えながら、いまだ1stアルバムをリリースしていない新人ポップ・シンガーであるヘイリー・スタインフェルドの代表曲2曲をモチーフにしつつ、彼女のインタヴューを読んでもらおうと思います。
出発地点として、まずは50年代のエルヴィス・プレスリーの映像を見ておいて下さい。今から60年以上前。いまだアメリカでアフロ・アメリカンの参政権が認められなかった時代、彼の存在は人種混交の夢であり、性の解放の象徴でした。勿論、曲も最高なんですが、ここでは彼の腰の動きを見て下さい。
Elvis Presley / Hound Dog (1956)
おそらく「別に普通のダンスなんじゃないの?」と大半の方が感じたことと思います。でも、当時は本当に革命的だったんですよ。タブーを打ち破った。実際、このエルヴィスのダンスがあからさまにセックスの時の腰の動きを連想させるからと、彼が初めて〈エド・サリバン・ショー〉に出演した際には、あらかじめカメラが彼の下半身を決して写さないようにと箝口令が引かれた。その時の映像を見て下さい。「何、このカメラ・ワーク?」って感じ。かなり笑えます。
Elvis Presley / Don't be Cruel (Ed Sullivan Show)
正直、今となっては笑い話ですね。でも、想像してみて下さい。エルヴィス・プレスリーが存在しなかったパラレル・ワールドの存在だってありえるんです。十二分に。だが実際には、彼の存在が、彼の表現が今のように世の中を変えてきた。時代の想像力を刺激することで。そんな風に歴史が教えてくれます。
そこから60年。ポップ・ソングにおけるセックスの表現はどんな風に変わってきたのか。今も性を公に表現することはタブーなのか。いまだ性的な表現は抑圧されているのか。そうした状況に対し、現在の表現者たちはどのように向かい合っているのか。特に2010年代のフィメール作家たちは。拙稿の主題はこれです。
まずここからの前提として、ゼロ年代以降のメインストリーム・ポップのひとつの傾向として、ビヨンセ、レディ・ガガ、リアーナ、テイラー・スウィフト、ケイティ・ペリー、カーリー・レイ・ジェプセン、グライムスといった幾多のフィメール・ポップ・シンガーが時代のオピニオン・リーダーの役割を担うようになった、そうした歴史的事実を頭の片隅に置いておいて下さい。
では、次は2010年代を代表するフィメール・ラッパー、我らがニッキー・ミナージュ2014年のヒット曲“アナコンダ”のPVを観ておきましょう。「俺のアナコンダが欲しがってるのはデカい尻だけ」という印象的なヴォイス・サンプルはSir Mix-a-Lotの1992年のアンセム“Baby Got Back”から採られたもの。勿論、タイトルである「アナコンダ」は男性性器のメタファーです。まごうことなきセックス・ソング。TSUTAYAの店内ラジオ風に言うなら、手塩にかけて大きく育てたプリンプリンのお尻自慢ソングです。
Nicki Minaj / Anaconda
最高ですよね。ただ、もしかすると、「これって、ただ卑猥なだけなんじゃないの?」という意見もあるかもしれない。でも、それってエルヴィスが発見された時に言われたことなんですね。古い価値観を持った上の世代から。あるいは、「いやいや、これはセクシズムなんじゃないの?」という反応もあるかもしれません。
ただ、ここでのもっとも重要なポイントは、これはコケティッシュな表現ではないということ。男からの視線や欲望、男が抱えるファンタジーに媚びた表現とは違うんです。あくまでセルフ・ボースティング、「私って凄い!」という自慢なんです。
と同時にこれは、90年代~ゼロ年代のスーパーモデルに代表される、極端なまでにスリムな女性こそが究極の美しさを体現しているという価値観に対する疑問の提示であり、オプションの提示でもあります。「女性の美しさは千差万別、その美しさは自分自身が決めるもの」という2010年代のフィメール作家たちに共通するスタンスですね。ニッキー、最高なんです。
それに対し、ここ日本における所謂アイドルと呼ばれる女性ポップ・シンガーたちの表現が全般的に「可愛い」という画一的な場所に押し込まれがち、という傾向があります。実際、ニッキー・ミナージュのような奔放な性表現をみかけることはほぼ皆無。もっとも日本特有の「カワイイ」という言葉には性的な表象とはまた別の意味作用があります。日本が世界に誇っていい独創的なコンセプトのひとつだとも言える。なので、ここで言う「可愛い」は、あくまで「異性のファンタジーに応える従属性」を表象する言葉だと思って下さい。すいません、少しばかり堅苦しい話になってきました。
あるいは、アリアナ・グランデの最新作『デンジャラス・ウーマン』や本稿の主人公であるヘイリー・スタインフェルドのデビューEP『ヘイズ』のアートワークは明確に成熟したセクシーさを強調したイメージになっています。ところが、日本盤では明らかに「可愛いイメージ」に差し替えられている。やはりこれは日本における女性の美しさに対するイメージ/性表現に対する受容の問題と考えるべきかもしれません。
*アリアナ・グランデ『デンジャラス・ウーマン』
(左)海外盤アートワーク (右)日本盤アートワーク
*ヘイリー・スタインフェルド『ヘイズ』
(左)海外盤アートワーク (右)日本盤アートワーク
この島国における性表現を考える時、2010年代のJ-POPやJ-ROCKほど性の匂いを感じさせない世界もかなり珍しい、そんな視点もあります。歴史的に見ても、これほど若さの表現の中から性的なイメージが綺麗に払拭されているのはかなり稀な事態です。もしかすると、これは日本という国が世界にも例を見ないポルノ大国だという事実と何かしら関係があるかもしれない。と暴論に繋げてみましょう。
例えば、日本という国が諸外国に比べ、マリファナやMDMAといったイリーガルなドラッグに対して過剰に不寛容であると同時に、実のところ非常に危険なリーガル・ドラッグ=アルコールに対しては世界にも例を見ないほど寛容であることはご存知のことと思います。未成年者含め、こんなにも手軽にアルコールが手に入る国も珍しい。日本のTV画面から流れてくるアルコール飲料CMの「安全なイメージ」と、そもそも一筋縄ではいかない性表現の多くが可愛いイメージで覆われていたり、それがおよそ見当たらなかったりという状況はどこか似通っている、そんな視点を持つことも可能かもしれません。まあ、ここは眉唾程度にお願いします。
ただ勿論、欧米においても女性作家たちが性的な表現をすることをいまだタブー視したり、それを身勝手な別の意味合いで受け取ってしまうという磁場は依然として存在します。昨年末にはそれを象徴する、ちょっとした事件が起こりました。
その当事者であるアリアナ・グランデのPVをまずは観て下さい。我らがニッキー・ミナージュの向こうを張り、アリアナちゃんがとにかく頑張っています。ディズニー・ドラマの子役から出発した彼女が今の自分自身を120%表現しようとしている。精一杯。まずは観て下さい。
Ariana Grande / Side To Side ft. Nicki Minaj
件の事件、事の起こりは彼女の現在の恋人であるラッパー、マック・ミラーと一緒にいた彼女が、理不尽で心ない言葉をぶつけられたことから始まります。まずアリアナはそれに対する自分の考えを長文の文章にしたため、画像として投稿。
— Ariana Grande (@ArianaGrande) December 28, 2016
これに対し、彼女のPVやポートレートがどれもセクシャルなイメージを使ったものだ、という数多くのメンションが彼女の元に届くことになります。
seeing a lot of "but look how you portray yourself in videos and in your music! you're so sexual!" .... please hold.. next tweet... i repeat
— Ariana Grande (@ArianaGrande) December 28, 2016
それに答えたのが以下の3つのツイートです。
expressing sexuality in art is not an invitation for disrespect !!! just like wearing a short skirt is not asking for assault.
— Ariana Grande (@ArianaGrande) December 28, 2016
Women's choice. ♡ our bodies, our clothing, our music, our personalities..... sexy, flirty, fun.
— Ariana Grande (@ArianaGrande) December 28, 2016
it is not. an open. invitation.
You are literally saying that if we look a certain way, we are yours to take. But we are not !!! It's our right to express ourselves. ♡
— Ariana Grande (@ArianaGrande) December 28, 2016
曰く、「アートの中でセクシャリティを表現したからといって失礼なことを言っていいという理由にはならない。短いスカートを履いたからといって暴行されたいってことじゃないのと同じこと」。「女性の選択だってこと。♡私たちの体、洋服、音楽、私たちのパーソナリティーーセクシーだったり、じゃれあったり、楽しんだり。それは誘ってるってことじゃない」。「私たちがそんな風だったりすると、モノにしていいってガチで思う人もいるみたいだけど、そうじゃない。これは私たちの権利、自分を表現するっていうね♡」。
見事です。思わず溜飲を下げずにはいられない。きちんと自己プロデュースされている。おそらく彼女がいきなり出家するようなことにはならないでしょう。ただこんな風に彼女たちの表現が誤解されてしまうのは、それ相応の歴史があったから、とも言えます。
例えば、MTV全盛期の80年代にはパフォーマーの脇にまるで飾り物のように、あからさまにセクシーさを強調した、いかにもステレオタイプな「セクシー女性」を添えたPVがたくさん作られました。要するに、誘うオンナ、媚びるオンナ、受動的なオンナというイメージですね。
以下にリンクを貼った、昨年大ヒットしたフィフス・ハーモニーの“ワーク・フロム・ホーム”のPVは明らかにそうした歴史を踏まえたうえで作られている。男と女の立場を逆にした演出によって、非常に批評性の高い内容になっています。
Fifth Harmony / Work from Home ft. Ty Dolla $ign
この曲のリリックの内容をざっくり言うと、「昼間の仕事の後の、夜のお仕事もよろしくね♡」というもの。誘うオンナ、媚びるオンナ、受動的なオンナというイメージを反転させることで、そうした旧態然とした価値観をからかっている。これは90年代にマドンナやPJハーヴェイがやってきた伝統に連なる手法と言っていいかもしれません。
そもそも「女らしさ」なんて、人種という概念と同じで幻想です。どーでもいい話。社会から与えられた「女らしさ」に自分自身を当てはめていくのではなく、それぞれが勝手に決めればいい、再定義し続けていけばいい、その程度のものです。ただそんな意図を持ったポップ・ソングというのは、「自分自身にかけた呪い」を解くにはとっておきの触媒かもしれません。
昨年を代表する1曲、リアーナの“ワーク”もまた、仕事というモチーフを使いつつ、男女の関係をからかい、それを再定義しようとしている曲とも位置付けることが出来ます。参考までにこちらもどうぞ。
いずれにせよ、現代の女性作家たちは各々がいろんな工夫を凝らしながら闘っている。心の底から楽しみながら。社会のシステムや常識、モラルのみならず、リスナーそれぞれの思い込みに揺さぶりをかけようとしている(因みに「ロックは反体制的な表現だ」なんて陳腐な物言いも、ポップ表現の可能性を矮小化させる勘違いです。嘘だと思うならボブ・ディランに訊いてみて下さい)。そして、そうした抑圧から解放させるヒントやきっかけを与えようとしている。かつてデヴィッド・ボウイがやってきたことの2010年代的変奏と言えなくもないわけです。どれもすごくエキサイティングだと思うんですけど、さて、いかがでしょう?
筆者自身が2010年代の女性作家たちの表現にずっと興奮させられてきた、ちょっとした象徴でもある映像をひとつ貼っておきましょう。パフォーマーの3人、ジェシー・J、アリアナ、ニッキーも最高ですが、客席にいるロードやテイラー・スウィフトも最高です。
Jessie J ft. Ariana Grande & Nicki Minaj / Bang Bang (AMA's 2014)
お待たせしました。ようやく本稿の主人公ヘイリー・スタインフェルドの登場です。つまり、こうした2010年代のフィメール作家たちの試行錯誤を経て、現在の彼女の存在がある。そして彼女は意識的に2010年代的な性的な表現を次に進めようとしている。そういうお話です。
では、「そもそもヘイリー・スタインフェルドって誰?」という読者の皆さんはまずこちらの記事からどうぞ。
2016年夏、いまだ19歳の彼女のデビュー・シングル『ラヴ・マイセルフ』は全米ビルボード・チャート最高位30位を記録します。そして、そのリリックの一部が物議を醸し出しました。ここで彼女が歌っているのは、基本的には失恋の痛みに打ち勝とうとしている少女の物語です。その中心となるラインが「私自身を愛してあげよう/他の誰かなんていらない」。
ただ、いたるところに「TOUCH」、「BODY」といった肉体的な慰めを彷彿させる言葉が忍ばせてある。それがゆえに「19歳の女の子がマスターベーションについて歌った?!」と物議を醸し出したわけです。では聴いてみて下さい。
Hailee Steinfeld / Love Myself
勿論、こうした手法にバズ狙いのあざとさを感じる方もいるかもしれません。でも、そもそもポップとはあざとさの中で何かしらの真実を語ろうという手法でもあります。ここ日本でもかつて歌謡曲全盛の時代、山口百恵や中森明菜の作品には「性的なほのめかし」という手法が積極的に使われていました。
山口百恵 / ひと夏の経験
その後、全米ビルボード・チャート最高位12位(2017年現在もチャート初登場29週目にしてトップ40圏内)を記録した3rdシングル『スターヴィング』にも継続して、「性的なほのめかし」という手法が意識的に使われています。
タイトルである「starving」という単語は明らかに性的な渇望をほのめかしています。「今すぐ私の身体にちょうだい/あなたを味わうまで自分が飢えていたことにさえ気付かなかった」「私の中の何かが変わっていく/昨日の私は今よりずっと幼かった」といったラインについては言わずもがなでしょう。
Hailee Steinfeld, Grey / Starving ft. Zedd
では、こうした「性的なほのめかし」を通じて、ようやく20歳になったばかりのヘイリー・スタインフェルドは何を表現しようとしたのか、本人に訊いてみることにしましょう。果たしてそこには明確な意志と自己プロデュースの視点がありました。
現在の彼女の表現がここまで長文を費やしてきて語ってきたことに見合うだけのものかどうか、その判断はすべての読者に委ねたいと思います。では読んで下さい。
ー一聴すれば、あなたのデビュー曲“ラヴ・マイセルフ”というのは壊れてしまったリレーションシップ、別れてしまったボーイフレンドについての曲ですよね?
「そうね。でも、私自身はこの曲をセルフエンパワーメント・アンセムーー自分自身に力を与える曲だと思ってる。別れや失恋についての曲ではなくてね。自分は最高で、美しいんだって思わせてくれる曲。だって、みんなそう思うべきだから(笑)。ただ、リリースした後、多くのファンから言われたの。『この曲のおかげで失恋を乗り越えることが出来た』って。すごく腑に落ちたの。この曲はうまくいかない日、気持ちが落ち込んだ時、いやなことがあった時に、そこから救ってくれる歌でもある。そんな曲なんだってことがわかったの」
ーただこの曲は自分自身に力を与える曲であると同時に、この曲のリリックはセクシーなニュアンスに置き換えられることも出来る。実際、あなたは多くのメディアから「これはマスターベーションについての曲なのか、どうか?」を尋ねられることになったわけですよね。そもそもこの曲を歌う不安みたいなものはありませんでしたか?
「どんなアートフォームにも言えることだけど、作品として世に出た以上、それは受け取る側が好きに解釈すればいいと思う。でも、あの曲はそもそも『自分で自分を満たすことが自分自身にとってどれだけ力になるか?』についての歌なの。それが肉体的だろうと、感情の部分だろうと、物質的な部分においてだろうと、自分を愛することで、ものすごいパワーが得られることについて歌っている。私はそれをみんな気付くべきだと思うの。特に若い女性はね。私自身、今でも常に自分に言い聞かせなきゃいけないことだって思ってる。でも、一度そこに気づいて、それが理解できたら、すべてが一変するのよ!」
ーええ(笑)。ケンドリック・ラマーの“i”のフックも、あなたの“ラヴ・マイセルフ”と同じく「I love myself」なんですね。あの曲は同胞である黒人に対するメッセージであり、社会的なアングルを持った曲だったわけだけど、あなたの曲の場合、特定のコミュニティに向けられていたり、何かしらの社会的なアングルはあるんでしょうか?
「あの曲はあらゆる人たちのための曲だと思っている。いかなる世代、いかなる人種だろうと、すべての人に向けた曲なの。メッセージとしては、自分の内なる力、内なる美しさに気づくことがどれだけの力を自分に与えてくれるかーーそれに尽きると思う。それって、人から教わるものじゃなくて、自分自身で自覚して、自分自身で学ばないといけないことでしょ。だからこそ、これはすべての人に向けた曲なの」
ーじゃあ、あなたが夏前にしたツイートで、すごく好きなのがあるんだけど。
「そうなの?ありがとう」
ー「あなたには、君は綺麗だねって言ってくれる誰かなんて必要ない(you don't need anyone to tell you that you're beautiful)」って風にあなたはツイートしてて。どういう経験からこれをツイートしたのか覚えていますか?
「もちろん。たまに自分に言い聞かせるつもりでツイートして、それをファンとも共有するの(笑)。そのツイートに関して言うと、すごく気分が良くて、絶好調で、自分は綺麗だって思えて、頑張っておしゃれをしたけど、それを誰にも気づいてもらえないことってあるでしょ? 誰でも一度はあると思うんだけど。そういう経験に基づいてるの」
ーなるほど。
「でも、それってつまり、誰かのためにお洒落をしたってことでしょ? あのツイートをしたのは、お洒落っていうのは自分のためにするべきなんだってことに気付いた瞬間だったの。今日は綺麗だねって誰かに褒められるためにお洒落をするんじゃダメだって。人に言われなくても、自分は綺麗なんだって思えなきゃいけないって。それ以前だと、ボーイフレンドに今日の君は綺麗だって言って欲しかった、今日の髪型はいつもと違うねって気づいて欲しかった、そんな風に思う瞬間があったんだけど。でも、人から褒められることを追い求めちゃダメだって気づいたの」
ーつまり、自分自身の美しさというのは自分自身で定義するものなんだ、ってこと?
「そう。その通りだと思うわ」
ーこれまでの女優としての出演映画では他人が書いた脚本に沿って演じてきたわけだし、あなたの曲にもあなた以外のコ・ライターがいるわけだけど、このツイートに現れているような視点がこれからのあなた自身の表現のベーシックになっていくような予感はありますか?
「その通りだと思う。“ラヴ・マイセルフ”を1stシングルとして出したことが、私自身が世界に発信していきたいメッセージの方向付けになったと思う。時代が変われば、人も変わるし、経験することも変わる。だからこそ、この先、私自身も歌で伝えたいことも変わっていくと思う。でも今の段階では、あれが私が本当に感じていることだし、みんなにも感じて欲しいことなの」
ー今はフィメール・ポップ・シンガーの時代ですよね。彼女たちは当然いろんな人々に向けて語りかけているわけだけど、例えば、レディ・ガガは特に自分の中にあまり一般的じゃないユニークネスやフリークネスを持った人たちに語りかけている。ケイティ・ペリーだと、男性というよりはより同性に語りかけているところがある。そんなスペクトルがあった時に、あなた自身はどういった人々に語りかけているという実感がありますか?
「この前、メーガン・トレイナーと一緒にツアーをしたの。彼女のオーディエンスって、もう5、6歳の小さな子供から祖父母世代までがいた。しかもその場にいたみんなが彼女の歌に共感しているの。そんな光景を見るのは本当に素晴らしかった。そうなった理由は、彼女の60年代ドゥ・ワップ風のレトロな音楽性のせいかもしれないし、新作の“ノー”や“ミー・トゥー”みたいな曲の歌詞のせいかもしれない。どの曲も一緒に歌って楽しい曲だから。でも、彼女のサポートとして私が自分の曲を歌った時、観客から同じような反応を得ることが出来た。そこで初めて私の音楽は幅広い人が共感できる曲なんだって感じたの。あらゆる年齢層のあらゆる人が楽しめるんだって。私の世代に向けた曲が多いのは確かだけど、彼らをライヴに連れてくる親の世代でも、聞いて『私も昔そんなことがあった』とか『今の曲はいい曲だったわ。私が若い頃にもこういう曲があったらよかったのに』と思ってくれたりするんじゃないかしら。うん、だから、幅広い人たちに共感できるものだと思うわ」
あれ、膨大なリードに比べて、インタヴューはこれだけ? と思った皆さんもいらっしゃると思います。
これまでのパート①とパート②については、ヘイリー・スタインフェルドとの50分ほどのインタヴューの内、それぞれのテーマの沿った部分のみ抜き出したので、少しでも彼女に興味を持ってくれた読者の皆さんは、ぜひパート③のノー・カット版インタヴューを読んで下さい。
0コメント