①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?
②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容
現在、この島国におけるポップ音楽についての「書き手」のスタイルというのは、多岐に渡っている。単純に肩書きとしても、音楽評論家、音楽ライター、音楽ジャーナリスト、批評家――当の本人が自らの肩書きにどの程度、意識的かどうかは置いておいたとしても、これまた多岐に渡るのは間違いない。
だが、受け手側の大半に関しては、おそらくはそうしたまったく違った役割と意識、スタイルをもった書き手を、ただ十羽ひと絡げに「音楽ライター」というフォルダに投げ込んでいるという現状がある。そのフォルダの中から、信頼を置ける評論スタイルを持った書き手だけを取り出して、その言説に耳を傾ける――ここまではとてもリーズナブルだ。とても健康的だと言っていい。
だが、同時に、個々の「音楽ライター」が提示する音楽テイストが自分自身のテイストと似通っている場合に、その書き手を信頼するというメカニズムも確かに存在する。
その結果として、①人気のある作家や作品を主にそのドメインとする書き手に多くの支持が集まる、②限られたジャンルやテイストを自らのドメインとして提示している書き手に一定のロイヤリティの高い支持が集まる――こうした現象が存在することは否めない。つまり、これはその是非はさておき、現状、「音楽ライター」に期待されている役割がテイスト・メイカー/キュレーターだということの証明でもある。
だが、柴那典という書き手は、そうした受容とは別の場所に自らを置くことを意識的に選択した代表的な作家だ。詳しくは以下の対話で語られているが、こうした選択は「音楽評論」の現状に対する彼の批評的な観察から成された結果でもある。
ただ、筆者ほどではないにせよ、おそらく柴那典という書き手は、現状、少しばかり読み手を選ぶ書き手でもあるだろう。その主な理由はふたつ。ひとつには、彼自身が意識している読み手というのは、従来のサブカル的な「音楽ファン」ではないから。もっと開かれた地平に対して語りかけようとする彼のスタンスは、時として「音楽ファン」からのバックラッシュを引き起こす。これはあるポイントにおいては理不尽で、あるポイントにおいてはリーズナブルだ(というのが筆者の私見である)。
もうひとつの理由は、彼の出自が「ロキノン」だから。これはかなり理不尽なリアクションだと言うべきだろう。何より現在の柴那典のテクストの大半と、彼の出自との関連はかなり希薄だからだ。
と同時に、この2017年現在、かつてあるひとつの傾向を持った音楽評論のスタイルの表象として名付けられた「ロキノン」という呼び名は、その母体である企業組織が評論よりも興業にその(批評)活動の軸を移したことによって、今では「ロッキン」という呼び名に取って代わることになった。よって、このふたつ目のポイントが解消されるのは時間の問題だろう。
いずれにせよ、本企画パート3である以下の対話は、そうした非常に込み入った状態にある「音楽評論家」「音楽ジャーナリスト」「音楽ライター」といった言葉を、その役割とスタイルにおいて、きちんと仕分け/ソーティングしようとする意図に基づいたもの。その過程から、「柴那典」という書き手のアイデンティティをさらに明確にしようとするものだ。
以下の対話には、湯川れい子、中村とうよう、渋谷陽一、中山康樹、高橋健太郎、鹿野淳、宇野維正、磯部涼、宗像明将、柳樂光隆といった語り部たちの名前も具体的に挙がっているが、その目的はそれぞれのスタイルに優劣をつけようとするものではなく、その比較の中から浮かび上がる、より視界の開けたパースペクティヴを提示するためにある。
このパート3でも、「柴那典」というアイデンティティをより明確にするために、筆者は意識的に自身と彼との対立構造を煽るというインタヴュー手法を取っている。ただパート1から読み進めてもらってきた読者はもはやお気付きかもしれないが、こうした対立の構造の中にはいくつもの共通する視点がある。大きく言うと、ふたつ。
ひとつは、もし仮にポップ音楽を対象にした批評が楯突こうとしているものがあるとすれば、それは「テイスト」だ、という認識だ。好き/嫌い、自分の趣味に合っている/合っていない、という判断。それは、言うまでもなく、表現から社会性やアクチュアリティを根こそぎ奪ってしまい、すべてをサブカル的な磁場に貶める最大の要因でもある。
もうひとつは「大衆の欲望を肯定する」という態度だろう。敢えて蛇足なことを言うなら、これは柴那典と筆者に共通する出自を計らずも浮き彫りにするものだ。極めて乱暴に言うなら、「大衆の欲望を肯定する」というのは、何よりも渋谷陽一特有の態度であり、それは彼のルーツにある吉本隆明から受け継いだものだからだ。
ただ勿論、そこに対しても、対立の構造はある。もし興味を持ってもらえるようなら、その対立の構図から何かしらの思考を導き出してもらえれば幸いだ。勿論、どちらが父親殺しという呪いに縛られているのかを無責任に楽しんでもらっても構わない。
いずれにせよ、「柴那典」という書き手のアイデンティティを浮き彫りにしようという以下の対話は、最終的には思わぬ場所にまで辿り着くことになった。おそらくすべての読者が想像もしたことのない場所まで。
最後まで読み進めることで何かしらの刺激を受け取ってもらうことが出来たのなら、編集者/インタヴュアー冥利に尽きる。そして、『ヒットの崩壊』を皮切りに〈shiba710〉というプロデューサー・タグの刻印された、いくつもの柴那典のテキストに改めて当たってほしい。
田中「え? 柴くんが自分自身のことを批評家や音楽評論家ではなく、音楽ジャーナリストと名乗るようになったきっかけが佐野元春さんのラジオにゲストに呼ばれたことなんですか?」
柴「そうなんです。その時に、冒頭10秒で、あの佐野さんのあの口調で、『音楽ジャーナリストの柴那典さんです』って言われたんですよ」
田中「(笑)名付けられちゃったんだ?」
柴「その時に『来た!』と思って(笑)。その時に、僕が今後、音楽ジャーナリストと名乗ることについて『お前、何をしゃらくさいこと言ってるんだ』と誰かに言われたとしてもも、『だって、佐野さんがそう呼んでくれたんだから』という、何らかのマジックカードを得たような――」
田中「啓示ですよ、それ(笑)」
柴「そう、啓示ですね(笑)。それが降りてきたというのがあって。佐野元春さんのラジオに呼ばれた契機も、とあるサイトに、『なぜ洋楽が聴かれなくなっているのか?』ということを書いたんです」
柴「それをどこかで見て、面白いと思って呼んでいただいたみたいで。結局放送に乗らなかった部分だったんですけれど、そこで喋ったのは単に洋楽が聴かれなくなってるということじゃなくて。これはユースカルチャーがどこから生まれるかの問題です、という話でした。2007年にその分水嶺があって、それがニコニコ動画です、と。そういうことを話したんです。それが『初音ミクはなぜ世界を変えたのか』のひとつのモチーフになっている」
田中「なるほど」
柴「ジャーナリストって人それぞれの定義があると思うんですけど、僕の中では、ひとつの仮説を立てて、それのキーを握っている現場の人間に検証取材をしに行く。その作業をする書き手がジャーナリストだと思っています。それは『初音ミク~』だったら〈クリプトン・フューチャー・メディア〉の伊藤社長だし、『ヒットの崩壊』だったら小室哲哉さんや水野良樹さんやたくさんの人たちである。そういう感じです」
田中「なるほど。じゃあ、初っ端に啓示があったとしても、名付けられることによって、自分自身のアイデンティティがより鮮明になったという実感がある?」
柴「ありますね」
田中「じゃあ、そんな自分のアイデンティティやスタンスに近い書き手は、誰か思い浮かびますか?」
柴「近い人か……。僕に近い場所で同じように『音楽ジャーナリスト』を名乗っている先輩はふたりいて。ひとりは鹿野淳さん。僕を最初にフックアップしてくれたのは鹿野さんなので、鹿野さんにはずっと感謝しているし、鹿野さんの辿ってきた道はずっと参考にしています。もうひとりは宇野維正さん。彼は僕と同じように音楽ジャーナリストって名乗っている。でも、これは本人にも直接言っているんですが、宇野さんはジャーナリストではなく評論家だと僕は思っています。当然、それはリスペクトも込めて」
田中「彼の仕事がジャーナリストではなく評論家だと位置付ける、その理由をもう少し詳しく教えてもらえますか?」
柴「宇野さんの素晴らしいところはテイスト・メイカーとしての仕事だと思うんです。彼が言っていたのは『自分がいいと言ったものが時を越えて評価され続けている』ということで。たとえばディアンジェロについても、みんなが黙っていた時から俺はずっとディアンジェロ、ディアンジェロと騒いでいて、『ほら、見たことか』ということになった。『それが俺のジャーナリストとしての価値なんだ』と言ってたんです。だから僕は、『宇野さん、あくまで言葉の定義の違いですが、僕はそれを評論家としての価値と捉えています』と言ったという。そういう話です」
田中「なるほど。もうひとりの鹿野くんは、いい意味で、アイデンティティとしてはもはや書き手じゃないですよね?」
柴「たしかに100%そうではないですね」
田中「もっと多岐に渡っている。彼自身がプロデューサーであり、ある時はペンを使い、ある時はシステムや仕組み、構造を作り、ある時は他のメディアで何かしらの発信をするっていう。そこで一番参考になるのはどういう部分ですか?」
柴「仮説を立てて検証するという部分です。構造を作る側としても、常に現場での仮説検証の繰り返しがある。それが発信に結びついている。そういう意味でジャーナリストだなと思いますね」
田中「なるほど」
柴「仮説を立てて、現場での取材を重ねているかどうか。それが僕の定義での『ジャーナリスト』と『評論家』との違いです。もちろん、どっちが上だとは思っていません。例えば、“戦場ジャーナリスト”と“戦場評論家”の違いと同じ風に僕は捉えています」
田中「ああ、いい比喩ですね。じゃあ、今、音楽評論家っていうタグ自体は、自分とはかなり距離があるものだっていう実感はあります?」
柴「あります。音楽評論家という肩書で紹介されそうになったら、できるだけ止めます」
田中「なるほど。ただ、おそらく柴くんの中ではふたつの視点があると思うんですね。①自分のアイデンティティと違うからっていうことと、②現状その肩書き自体があまり機能していないからっていうこと。で、もし後者に関して、音楽評論の在り方が根詰まりを起こしていると考える理由があるとしたら、教えて下さい」
柴「いろいろありますけれど、90年代的な音楽評論が持っていたユーザーに対しての機能は、端的にバイヤーズ・ガイドだったと思うんです。CDというパッケージとしてたくさん音楽がリリースされるようになった。同じお金を払うにあたって、どれを買えば一番得するのか。それを指し示すガイド役としての役割が大きかった。でも、今の時代、もうリスナーは迷う必要はないですからね。ストリーミングサービスは『聴き放題』なんだから、ただ聴けばいい」
田中「もう買わなくていいわけだからね」
柴「とはいえ、当然テイスト・メイカーが果たす役割が無くなったわけではないと思います。時間の取り合い、アテンションの奪い合いということは生じているので。でも、ただ、かつてのバイヤーズ・ガイドと比べると、求められている価値の総量は減っているんじゃないかというのが正直な実感です」
田中「でも、こういう風に感じることってありませんか? 俺、音楽雑誌の編集者として、『なんだよ、結局求められているのはテイスト・メイカー的な側面かよ、キュレーションしてほしいのかよ、何がいいのか教えてくれよってことかよ』って、がっかりするようなことって常々あったんですね」
柴「ええ」
田中「でも極端な話、自分にとっては対象なんて何でもいいんです。さっきも言ったように、『こういう見方で見れば、これが輝く』っていう視点の提示だけをしたいから」
柴「わかります」
田中「今でも〈サインマグ〉でチャートを作るじゃないですか。2016年の年間ベストは1位から50位までじゃなくて、1位から75位までにしたんです。あれは、そうすることによって、より幾つかの視点が提示され、より視界が開けるっていうアイデアなんですよ」
田中「でも、有り体な受容としては、『1位から10位は何なの?』『結局、一番いいのは何なの?』っていうのが確実にあるんですよ」
柴「まさにその通りですね」
田中「そういう実感があるから、テイスト・メイカーとしての役割は減っているというよりも確実に求められてる。とも思います。で、俺はそれにすっごくゲンナリしている。ある見方をすれば、こっちの方が面白くて、ある見方をすれば、こっちの方が優れている。そういう風に、まだ存在しない幾つかの視点を発見することの方がエキサイティングなんじゃないの? それがいろんな世の中の見方に繋がるんじゃないですか? って思うんだけど。要は、テイスト・メイカーとしての需要に飽き飽きしているんです」
柴「なるほど。僕自身はテイスト・メイカーとして求められていないので、そういう需要の実感がないということなのかもしれないですね」
田中「で、なおかつ、テイスト・メイカーとして求められないように、柴くんは自分をブランディングし直したということですよね?」
柴「ああ、そうかもしれないです。『シバナテンはフラットな評論家である』という言われ方をするのは、そういうことでしょうね。せっかくなんで他の音楽に関する書き手の名前をたくさん出すと、磯部涼さんや宗像明将さんは音楽ジャーナリスト寄りと捉えています。現場から知見を持ち帰っている。一方で柳樂光隆さんはテイスト・メイカーの代表である。僕は柳樂さんの仕事はとても尊敬しているけど、自分とは役割が違う、別のカテゴリーの人間だと思いますね」
田中「本当に違うからね(笑)。柳樂くんは柳樂くんで、今、絶対に欠かせない重要なプレイヤーのひとりで、スタンスとしても独自だし、すごく面白いんだけど」
柴「僕もそう思います。特に『Jazz:NewChapter』という新しい言葉と価値観を作ることでシーンを活性化したという仕事は、すごく称賛されるべきものだと心から思っている。だから、ツイッターでグチグチ言わないでほしいっていう本音もある(笑)」
田中「(笑)柳樂くんは柴くんの何にムカついてるの?」
柴「ムカつくっていうか、たまに『音楽評論かくあるべき』みたいなことを言いますよね? それがtogetterにまとめられたりしている。基本的には彼は表現者の意志や思いをエモーショナルに語ったり、もしくはマーケットの枠組みについて語ったりするんじゃなくて、音楽そのものの話をしようよというスタンスをとっている。それを見て、僕としては『ああ、役割が違うな』と思うだけなんですけど」
田中「向こうもそう思えばいいじゃんね?(笑)。それぞれがそれぞれの役割を果たして、もしそこに情報と視点の交通があれば、それ以上に理想的なことってないわけじゃないですか」
柴「そうですね(笑)。あと、僕が思っている役割の違いというのは、後か先かということが大きいのかもしれないですね。事象に対しての順番が違う。テイスト・メイカーは自分の感性やセンスによって世の中やシーンに作用を及ぼしていく仕事。僕が『初音ミク~』や『ヒットの崩壊』でやったのは、すでに起こってしまったことに対して仮説を立てて検証する仕事。それ以外だと一番わかりやすいのはピコ太郎の“PPAP”ですね。『“PPAP”はなんで流行ったのか?』という疑問が世の中に生じたら、その疑問に答える仕事をする」
田中「なるほど。柳樂くんと言えば、この前も渋谷陽一さんにインタヴューしてたじゃないですか? 読んだ?」
柴「読みました。カマシ・ワシントンの話ですよね。あれ、超面白かったですよね」
田中「でも、何が一番面白いって、渋谷さんが30年以上前から何ひとつ変わってないっていう」
柴「あははは(笑)」
田中「30年前から視点が1ミリもブレないっていうのがとにかく面白かったんだけど」
柴「『ブレなくていいんだ!』って、勇気づけられましたよ。ひとつの芸風を確立したら、それで全ての事象を解釈し続けることができるんだという」
田中「俺は勇気づけられはしなかったけど、とにかく『さすがだな』と溜飲を下げずにはいられなかった(笑)。僭越な物言いだけど、本当に偉大な方ですよ」
柴「あと、もうひとつ僕がストレートに勇気づけられたことがあって。去年に湯川れい子さんのインタヴューをしたんです」
田中「どんな話をしたんですか?」
柴「Yahoo!の企画で『音楽とネットの力』というテーマだったんですが、話としては当然、湯川れい子さんが実際に出会ってきたエルヴィス・プレスリーやビートルズやマイケル・ジャクソンの内容になる。そこから、ラジオやテレビやMTVのようなメディアが音楽にエンパワーメントしてきた歴史、それがネット以降どう変化したのかという内容にまとめたんですね」
柴「でも、すごく良かったのは、最後に『最近のお気に入りは?』って訊いた時のことで。そうしたら『ちょっと前まではブルーノ・マーズだったんだけど、今はこのあいだ観た映画(『エイミー AMY』)がよかったからエイミー・ワインハウスかな』っておっしゃった。それを聞いた時に、どんだけミーハーなんだ! って思って」
田中「最高ですね(笑)」
柴「あれだけのポップ・ミュージックの歴史の生き証人のような方、しかも80歳を超えた方が、最新の流行を追いかけ続けてるんだ、と。僕の思春期にはミーハーであることは恥ずべき価値観であるというインプリンティングがあったんですけど、いや、もうこれからはミーハーでいこうと思った。湯川れい子さんは、そういう意味でとても尊敬しましたね」
田中「自分がそうだから言うわけじゃないけど、ミーハーなのは本当に大事なことだと思います」
柴「あと、こういう話なので、僕の尊敬する他の音楽評論家の名前もどんどん出しますけど、あとは高橋健太郎さん」
田中「健太郎さんのことはどう捉えてるの?」
柴「高橋健太郎さんには、あんまり勇気づけられるという感じはないですね。さっきの話で言うと自分とは役割が違う。でもすごく尊敬しています。〈ototoy〉もやってる、〈ERIS〉もやってる、レコーディング・プロデューサーもやってる。偉大な先達のひとりだと思っています」
田中「ですね」
柴「ただ、ひとつだけ思っているのは、高橋健太郎さんは、たとえば先ほどまとめられてたtogetterを見ると、音楽批評において音楽評論家はミュージシャン、つまり譜面の知識を持ってアナリーゼ的に音楽を分析できる書き手に勝てないんじゃないかという命題をお持ちでいる。印象批評に対してとても厳しいロジックですよね。僕自身そこに限界を感じているのでBPMやコード進行の話もするし〈ロッキング・オン〉出身の他の書き手に比べるとたまに譜面を使ったりもするんですけど」
柴「でも、その上でやっぱり思うのは、物語の力が軽視されているなあということなんですよ」
田中「なるほど」
柴「これは高橋健太郎さんに言われたことじゃないですけれど、僕自身が書いたものについて『それは音楽の話じゃない』『もっと音楽そのものの話をしようよ』ということをたまに言われる。音楽それ自体の実証的な解析に価値を見出す人たちがいる。それは当然わかります。でもそこに関しては、でもそれって、『壮絶な人生を送った人の年表があれば私小説作家なんていらない』と言っていることと究極的には同じですよね? とは思います」
田中「(笑)でも、そういった違いって、それぞれの書き手が何かしらの系譜の上にあるから、と考えることは出来ますか?」
柴「もちろんその通りです」
田中「例えば、柳樂くんは、たぶん中山康樹と渋谷陽一の存在がデカいんだと思うんですよ。その一番のポイントは、中山さんも渋谷さんも単にペンで戦うだけではなくて、利権を持っているレーベルのプロモーションにかなり深く関わっていた。昨年末に亡くなった石坂敬一さんが〈東芝EMI〉にいらした時に、石坂敬一さんがいて、渋谷さんがいて、具体的にプログレというジャンル全般を盛り上げようと、それを具体的にやった。〈スウィング・ジャーナル〉時代の中山康樹もまさにそうだった。柳樂くんも作家、作品を世の中に広めるために、作品の利権を持っている人たちと近いところで、新しい状況を作り出そうというところに軸足がある。だから、まあ、柴くんとは違うよね」
柴「そうですね。役割が違う。だから攻撃したい気持ちは全くないんです。さっき語ったように、そもそも名前をあげて明示的にアテンションしているのは僕の好きな人たちなので」
田中「わかります。じゃあ、柴くんにとってのロール・モデルを何人か挙げることは出来ますか? 柴くんが音楽ジャーナリストと名乗るようになって、仮説検証するようになった、そのモデルみたいな人はいる?」
柴「あー、でも、それはあんまりいないかもしれないですね」
田中「例えば、高橋健太郎さんのロール・モデルというのは、やっぱり中村とうようだと思うんですよ。古い音源でも新しい音源でも、機材や人脈を洗い出して、録音された現場がどうだったかとか、それと時代がどういった形で関わってきたか、全部ひとつずつ文献を紐解くようにして体系化していく。中村とうようが膨大なSP盤を収集することでやっていた仕事を、彼はYouTubeを掘り返すことで新たに更新しようとしている。偉大な仕事を受け継いでいる。ひとつにはそういう側面がある」
柴「そうですね」
田中「柴くんの場合は?」
柴「そうかー。それで言うと、明らかに渋谷陽一さんではないですし、鹿野淳さんでも、湯川れい子さんでもない。うーん、言いにくいけどあえて言うと……」
田中「誰?」
柴「東浩紀さんだと思います」
田中「ああ、なるほど。それは納得ですね。ただ、東浩紀であれば、彼は批評という言葉を使いますよね?」
柴「はい」
田中「彼が批評という言葉を使う時、現存する何かしらの対象に対して、今言われているものとは違う視点から読み解くこと、そして、今はまだ世間では光が当たっていないモチーフを引っ張り上げてきて、それに文脈をつけて提示する、その両方をその役割だと認識している。その両方が必要だということを、彼はずっと言ってきたと思うんですね」
柴「そうですね」
田中「そこは本当にその通りだと思うんですよ。テイスト・メイカーだけではつまらない。仮説検証で状況を分析するだけじゃつまらない。その両輪があってこそ批評は成り立つし、批評家、書き手のアイデンティティが確立され、それが受け手にシェアされるんじゃないか?――そういう意地悪なアングルについてはどうですか?(笑)」
柴「いや、それは意地悪ではなくて、心から同意します。で、それが僕が現状で『批評家』という肩書きを名乗っていない理由でもあると思います。つまり、東さんが定義しているような批評の土俵で僕は戦っていない。それは単なる結果的な話なのか、能力的な話なのか――自尊心からすると能力が足りないとは言いたくないですが――それは自分ではわからないです。でも、総論として、やっぱり批評というものは、とても機能するものだと思っています」
田中「俺も必要なのはやっぱり批評だと思っているんです。このちっぽけな自分自身も批評という世界の末席にいるつもりでいる」
柴「東さん自身が最近のインタヴューでゼロ年代以降の批評の低調について語っていて」
柴「それを読んでも、批評が果たさなければいけない役割というのはすごく大きいと思います。でも僕は自己認識として、批評家を名乗れるほどのことは成し遂げられていないという感覚がある。でもあきらめずに批評にトライしなければいけないとも思っている。なのでその質問は全然意地悪だと思ってないです」
田中「じゃあ、柴くんが考える批評の役割、あるいは、批評と自分との距離感について、もう少し詳しく教えてもらっていいですか?」
柴「これは最初の話に戻るんですが、『ヒットの崩壊』の最後の章で書いたロングテールとモンスターヘッドの二極化について。あれはすなわち、批評が機能しなくなっている状況だと僕は捉えているんですね」
田中「なるほど」
柴「要は『みんながいいと言っているからいい』という判断、もしくは『みんなが言及しているものに俺も一言差し挟みたい』という欲望に駆動されているのがモンスターヘッド。で、ロングテールというのは『俺はこれが好き』ですよね。後者はどんどん先細っていく。つまり、批評が機能していないと――それはテイスト・メイカーの部分も含めてですけど、巨大な影響力を持った一握りの者と、多様性は認められているけど居場所しかない無数のタコツボの二極化になってしまう」
田中「まずそういう現状認識があるっていうことですね」
柴「そうです。そういう現状認識において、批評は必要であると考えています。なぜなら、その二極化においてミドルボディが必要だから。なぜミドルボディが必要かというと、『その方が豊かだから』『その方が生きてて楽しいから』というところに辿り着いてしまうんですけど」
田中「ですね」
柴「僕らが楽しく生きていくためには――これは言葉にすると陳腐なんですけど、主体性を取り戻さなければいけない。主体性を取り戻すことの反対にあるのは、ニーズへの最適化だと思っています。でもその一方で、『みんながそれぞれ主体性を持って、自分の頭で判断しましょう』って、僕、小学生の教室に藁半紙で貼ってある標語と同じレベルの言葉だと思うんですよ。そんなこと言ってもしょうがないよ、っていうニヒリズムがある」
田中「(笑)なるほど」
柴「だからこそ、ニーズへの最適化への雪崩を食い止めるために、批評は頑張らなきゃな、っていう思いがあります。シーシュポスのように岩を山頂に向かって運ばなきゃいけないな、というか。しんどそうな言葉を選ぶな、って自分でも思うんですけど(笑)」
田中「いやいやいや(笑)」
柴「でも、しんどい言葉が出てくるっていうことは、結局僕がそこの周りをグルグルしているからだと思います」
田中「今、話してもらった“教室の後ろに貼ってある標語”っていうアナロジーは、要するに、そんな標語を掲げたところで、うっとうしがられるだけで誰も守らないよ、もっと敷居の低い欲望に流れるよ、っていうニヒリズムがあるってことですよね?」
柴「そうですね」
田中「で、俺とかは、ある種のポーズとして、それに苛立ったりする身振りを取ったりするわけですね(笑)」
柴「だから、現状認識は同じでスタンスが違うと思ったというのは、そこなんです」
田中「で、本当に意地悪な質問ばかり続いちゃいますけど、自分と柴くんをあえて対比させて感じるのは、柴くんは自分が書いたもので読み手が何かしらの納得をし、共感をしてくれるようなモデルで書いているような気がするんですよ」
柴「なるほど」
田中「でも、そこは俺、本当になくて。自分が書いたものに『禿同!』とか言われると、本当にムカつくんですよ」
柴「ははは、そうなんですね」
田中「実際のところ、同意を求めたり、共感されるために書いたものはほとんどなくて。自分にとって一番の理想的なリアクションっていうのは、『ホントかよ?』っていう態度なんです。何故そういったリアクションを望んでいるかと言うと、読み手が『ホントかよ?』と感じた後に、それを自ら検証するためにもう一度その対象となる作品に向き合うことに繋がるからなんですね」
柴「なるほど。タナソウさんが書いているものはリファレンスが多いですもんね」
田中「田中宗一郎が言っていた、何かしらの根拠はあるにせよ、とても荒唐無稽なこと――それを自分の目と耳でもう一度確認してみよう、と読み手に思わせて、実際に行動させること。それが批評の役割だと思うんですね。それが仮説検証されているものだろうが、印象批評だろうが、そのスタイルは関係ない。とにかく、何かしらの説得力はあるにせよ、『正直、信じられない』と思わせることで受け手の思考とアクションを引き起こすこと。記号が輝き出す、うごめき出す、そういう状況を生み出すものが批評だと思うんですね」
柴「ええ」
田中「これは必ずしも全てがそうではないと思うけど、柴くんの仕事の中には、読者がモチーフに対してもう一度アクションを起こしてくれる可能性をむしろ狭めている仕事もなくはないと思うんですよ。納得させることで。あるいは、読み手のテイストを肯定することに繋がるような仕事がどうしても多くなりがちなところがある」
柴「そうですね」
田中「なおかつ、読み手が事前にそのモチーフについての知識や体験があることを前提にしちゃっている場合も多々ある。それも何かしら、多様性を生み出すこととか、思いもしない事故や交通、運動にはあまり繋がらない気がするんです。蛸壺化にも繋がる。だから、僕の考える批評というのは、納得されたり、共感されたりすると駄目なんです」
柴「僕、さんざんタナソウさんに意地悪な質問をされてきたと思うんで、ひとつ意地悪な質問をしていいですか?」
田中「どうぞ(笑)」
柴「僕は、そのタナソウさんのスタンスはすごく美しいと思います。でも、〈サインマグ〉で3年間、これが掲載される〈SILLY〉で1年間。タナソウさんは読み手が『ほんとかよ?』というリアクションを抱くようなテキストを、ものすごい熱量とものすごい努力を込めて書いてきたと思うんですけど」
田中「ほぼ数は書いてないけどね。メインの仕事が編集者だから」
柴「いや、読めばその労力はわかります。でも、そこに費やしたコストと得られたベネフィット、それって釣り合っていると思いますか?」
田中「まずね、そういう風に考えないです」
柴「というと?」
田中「批評は投瓶通信だから。要するに、無人島から瓶に詰めて、大海に投げ込んだメッセージですね。いつ誰がそれを拾ってくれるかわからない、誰にも届かないかもしれない。でも、それに対する期待をしちゃいけない。ベネフィットに換算しちゃいけない。自分自身の座右の銘のひとつでもあるんですけど、とにかく100年単位で考えて、10年単位で行動するって決めてるんですよ」
柴「なるほど」
田中「それに、さっき柴くんが言ってたように、ネットに物を書くと、アーカイヴされる。これが10年後、15年後、どんなケミストリーを起こすかわからないわけじゃないですか。それがさっきのgoogle検索の話みたいなことにはならず、きちっとアクセス出来る状況にあればね。俺は書き手として、今そういうタームにいるんですよ」
柴「なるほど、とてもよくわかりました」
田中「ただ、それって、今の自分がとても恵まれた環境にいるからこそ言えることでもあるんですね。そもそも数を書かないわけじゃないですか。それで生活出来ている。音楽について書くことを生業にしたいと思ってる20代の若い書き手にはやれませんよね。だからこそ、今の自分の一番のアイデンティティは、批評的に編集者をやることなんです。だからこそ、こうやって柴くんと話をさせてもらう場を作らせてもらった。と同時に、柳樂くんだろうが誰だろうが、明らかに分断しているいろんな書き手と常にコミュニケーションを取ろうとしている。それを横断させて、目に見えないネットワークを作ろうとしている。それが10年間で何かしら形になるかもしれないし、ならないかもしれない。でも、とにかく今は楽しいなあ、っていうことなんです。だから、しんどさもまったくない。そこでベネフィットをイメージしたりとか、すぐに目に見える読者の直近のリアクションに期待したりすると、必ず間違ったことになる。そんなスタンスなんですね」
柴「タナソウさんが『ほんとかよ?』というリアクションを与えることを目指しつつそのベネフィットに期待しないというスタンスはわかりました。じゃあ、僕が読者に対してどのようなスタンスでいるか、自分の言葉でもう少し明確にさせてもらうと」
田中「うん、是非話して下さい」
柴「言葉で言うと両義的なんですが、“喉越し”を与えたいという気持ちはあります」
田中「喉越し、というと?」
柴「『ヒットの崩壊』という本を注意深く読めば、その手法で書かれているのがわかると思うんです。細かい疑問があって、それが解消されるという、その連続で書かれている。だから、炭酸飲料のように小さな泡が消える刺激を与えつつ、咀嚼の難しさはない。一言で言うとリーダブルであるものを目指している。僕が言われて嬉しかった感想が、『あっという間に読み終わった』なんですよ。要は、スティーヴン・キングのストーリーテリングに近い方法論を音楽ジャーナリズムで出来ないか? という実験でもあるんです」
田中「ああ、なるほど」
柴「書き手としての狙いはそこにありますね。あとはもうひとつ読者に対してのスタンスとして守っているのは、読んだ人が何かひとつ得をしてほしい。これは新書だけじゃなくて、一個一個のレヴュー、キュレーション記事、セレクト、こういった対談でもそうですけど。何かを与えたい。それはちょっとした知識やTIPSみたいなものでもいいし、例えば、この対談全体を通した、音楽と批評にまつわる巨大な問題意識のアカシック・レコードみたいなものにちょっと触れたかも、みたいな快感でもいいんですけど」
田中「(笑)」
柴「読んで何らかの快楽を得てほしい。そういう意味では、タナソウさんとは真逆です。帰り道でホクホクしてほしいんですね。読み終えた時に、いい湯につかった顔をしてほしい。それは作法として守っている部分です。なので、『しんどいよね』って言われるのは、サービスの提供者だからなんだとも思います」
田中「なるほど。表現において、アートとエンタテイメントっていう区別があるよね。これは適切なアナロジーじゃないかもしれないけど、それはエンタテイメントに徹するっていうこと?」
柴「音楽ライターの仕事って、『この新譜は素晴らしい』『お前はこれを聴くべきだ』って、どうしても押し付けになるじゃないですか。それをやってもいいけど、自分がやる時は、『なんでこれはこうなってるの?』『それはこうですよ』っていう、ちょっとしたサービス精神をそこに混ぜたいんです」
田中「なるほど。今の話は読み手の快楽の話だと思うので、そこも対比させてみますね。俺も快楽を与えたいんですよ。喉ごし、あるいは、温泉上がりのホクホクした顔っていう風に言ってもらったけど、快楽って本当にヴァリエーションがあると思ってるんですね。ドラッグで言えば、モーリー、ヘロイン、マリファナ、アルコール、ニコチン、スピード、コデインと、全部違うんですよ。ナチュラルなハイもあるし、すごくダウナーなものも、アッパーなものもある。小説だろうが映画だろうが音楽だろうが批評だろうが、その快楽にヴァリエーションがあるもの、あるいは、アッパーな快楽とダウナーな快楽がイン&ヤン状態になっているテキストに一番ムーヴされるんですね。だから、ひとつの曲を聴いた時、本や文章を読んだ時、映画を見た時に、受け手がアップリフティングされる部分と、すごく嫌な気分にさせられるところの両方がないと面白いと思わないんです。刺激を受けない。なおかつ、『わけがわからないな!』っていうところがないと惹かれない」
柴「うんうん」
田中「それは自分が書くものについてもそうなんですね。読んだ人が、『なんか気持ちが盛り上がるんだけど、なんか引っかかるな、ムカつくな』とか、『ここまではよくわかるけど、ここはさっぱり意味がわかんないな』っていうところを意識的に配置しないと嫌なんです。重要なのは、どれだけ受け手の主体性を刺激出来るかだと思っているし、それが究極のサービスだと思ってるんですね」
柴「そうですね」
田中「だからこそ、すごくありがちなリスナーのテイストや行動原理を目にしたりすると、『あなたの趣味、テイストって、自分で選んだと思ってるかもしれないけど、数字だの、自分でエコーチェンバー化させた環境に、知らず知らずのうちに従ってるだけなんじゃないの?』って思っちゃうんですよ。数年前まではそれをアーキテクチャの奴隷って呼んでたんですけど」
田中「それとは逆に、若い世代のリスナーと出会って、『え? そんな聴き方するんだ?!』『それとそれ一緒に聴くんだ?!』みたいなことに素直に興奮するんですよ」
柴「なるほどなあ」
田中「そういう意味では柴くんとはすごく対照的」
柴「対照的ですね」
田中「で、もちろん、結果が見えづらいのは俺の方です。本当に頭が悪いな、とも思う。でも、とにかく楽しいんですね。さっき柴くんはスティーヴン・キングの名前を挙げてくれましたけど、僕自身のロール・モデルはトマス・ピンチョンなんですよ。ようやく5、6年前に読み方がわかったんだけど、彼の小説はさっと読めないじゃないですか。なぜ読めないかって言うと、幾つもの理由があるんですけど、ひとつには誰も知らないような固有名詞や単語が多すぎる。でも、ひとつひとつにきちんと意味があるんですね。それを逐一理解していくと、すごく視界が開ける。日付とかもそうなんですよ。でも逆にそれを読み飛ばしていくとさっぱりわからない。読み手の側が読み飛ばせない仕組みがわざわざ作ってあるんですね。それがポイントなんです。何について書かれているか以上に、読み取るべきものがある。そんな風に受け手の主体性をパフォーマティヴに引き出す構造を作り上げてるんですね」
柴「なるほど」
田中「その仕組みが分かった瞬間にめちゃくちゃ面白いんです。そういうことをやりたい。とは言っても、書く時間とかほとんどないんですけど(笑)」
柴「それは、まさに僕がやっていない課題ですし、課題があるっていうのは楽しいですね。でも、ここから先はもっと込み入った話なんですど……さっきアートとエンタテイメントという話をしましたよね。エンタテイメントはさっき言ったサービス精神です。でもアートの方は、僕は日常的によく泣くので、そういう時に感じるときのことだと思います」
田中「というと?」
柴「たとえば……僕、渋谷の246の歩道橋の上から渋谷駅周辺、人がワーッと歩いている姿を見て、泣きそうになったことがあって。僕は自分が泣きそうになったことはロジックとか仮説検証ではない、つまりそこに関しては宗教だから、信じるようにしているんです」
田中「なるほど」
柴「なんで自分が泣きそうになったかというと、そこには無数の人々が行き交っていますよね。そういう無数の人たちの生活や嗜好や欲望は、全て失われるわけですよ。長い時間軸の中では全てが無になる。これはクラブでもいつも思うことです。tofubeatsくんはきっとこの感覚を共有してくれると思うんですけど。ミラーボールが光っている、何らかのビートが鳴っている、たくさんの人たちが両手を挙げている。そういう光景を見た時に、『あ、これはすべて失われる、あっという間に失われる』っていう確信が生まれる。それと共に泣きそうになるんです。この感覚は、僕は結構信じているもので。結局、僕の仮説検証とかジャーナリストとかの玉ねぎを剥いでいくと、最終的には膝小僧を抱えて泣いていると思うんですよね」
田中「へー、なるほどなー」
柴「この話も、結局、仏教に行き着いてしまうんですよ。全ては失われるし、全ては無になる。諸行は無常である。そのことにとても強いセンチメントと信頼を抱いている。それがゆえに、言っていることは全部しんどいのかもしれないんですけど、そこには安らぎがあるんですね」
田中「ただ、そういう、ある種の万物流転、すべてが失われるっていうところに直接フォーカスしたものを書くっていう発想はないの?」
柴「あー、たまに書きたいですね。最近ブログにもちょっと書いたんですけど、僕がレディオヘッドで一番好きな曲は“エヴリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス”なんです」
Radiohead / Everything In Its Right Place (live 2003)
柴「この曲は、全てが失われることに対してのアンチテーゼというか、そうであってほしくないっていうステイトメントで。僕の琴線の一番ヤバい部分を触れてくる曲なんですよね」
柴「そこに関しての物を書くのは、10年、20年先かもしれないです。まだ熟してないです。でも、ずっとある。それはひょっとしたら作家としての自分かもしれないですけどね」
田中「なるほど。それは是非いつか書いて下さい。僕にしても、いつも炭坑のカナリヤを気取ってますけど、実のところ、これから社会がどうなっていくかとか、わりとどうでもよくて。結局、人は死に、物は壊れる。でも同時に、新しい命は生まれ、新しい物が何事もなかったかのように作られていく。帰る場所はそこしかないじゃないですか?」
柴「そうなんですよ。だから、僕はしんどいんですけど、最終的には安らぎがありますね」
田中「なるほど」
柴「すごいな、タナソウさんのインタヴューって。そりゃ、ミュージシャンはみんな終えた後に『すごかった』って言うわけだわ(笑)」
田中「いやいや、いたるところで先輩ウィンド吹かせちゃってごめんなさい」
柴「はい(笑)。話していてわかってもらえていると思うんですけど、“最適化の罠”にハマるのを避けたいというのは僕自身の指針でもあるわけです。そのためには課題と、未開の領域がたくさんあった方がいい。なのでそれは本当にありがとうございます、っていう感じです」
田中「いやいや、本当に厄介な企画に乗っていただいて」
柴「もちろん、実際に全てやるかどうかは別にして。なんだかんだ言って、僕も書くの辞めるかもしれないですしね」
田中「そうなの?!」
柴「いや、わからないです(笑)。その可能性すら否定しないでおくということです。もしかしたら、毎週ラジオ番組やって生計を立てているかもしれないですし。そういう意味ですよ」
田中「そうか。じゃあ、最後にひとつ教えて下さい。話すことと書くこと、それはアウトプットする内容もトーン&マナーも根こそぎ変えてしまうものだと思うんですけど」
柴「はい」
田中「話すことと書くことのそれぞれを、この先、どんな比率で考えていきたいか? そして、それぞれのタブローにおいて、どういうアウトプットをしていきたいか? そこを教えて下さい」
柴「しゃべる仕事は増やしていきたいです。特にラジオはすごくメディアとしての可能性を感じているので、ラジオで何かやりたいというのはあります。僕が書き始めた時は、しゃべることが出来ないから書いていたんです。コミュニケーションとして、自分が伝えたい総体性を伝えることは書くことでしか出来ない。こうやってインタヴューを受けることさえままならなかった。そういうスキル的な問題があった」
田中「そんなことないでしょう?」
柴「いや、実際そうだったんですよ。僕は2008年にラジオの『オールナイトニッポン』に呼ばれたことがあって、その時の記憶は惨敗だったんです。結果を出せなかった。自分にはしゃべることはできない、だから書くという意識があったんです」
田中「なるほど」
柴「でも、今はしゃべることが出来ている。少なくともダイノジ大谷さんとの『心のベストテン』を筆頭に、仕事の実績はある。両方やれるようになった。そうなると、書くことの意味合いは違ってきますよね。しゃべることで伝えること、書くことで伝えることが変わってくる。今の時点で考えているのは、楽しさを伝えるのがしゃべる時で、切なさを伝えたい時には書くしかない」
田中「そういった形でタブローとテーマ、モチーフを使い分けていこうとしているということですね」
柴「はい。もちろん書くのは大好きですよ。仕事ない時はブログ書いてるくらいなんで。でも、しゃべるのはどんどん楽しくなっているし、しゃべる時は楽しさで世を満たしたい。ただ、さっきは『しゃべるだけになるかもしれませんよ』って言いましたけど、たぶん、しゃべるだけになったら、渋谷の歩道橋で人が行き交う風景を見晴らして泣いている自分が反乱を起こすような予感がある。それを待っている――っていうのもあるかもしれないです」
田中「そうなった時に柴くんが何を書くか楽しみですね」
柴「ありがとうございます。いやあ、こんな話までいきつくとは(笑)」
Photography : 尾田和実 / Kazumi Oda
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