2016年に出版された音楽関係の書物の中でももっとも注目された作品のひとつとして、音楽ジャーナリストの柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』の名前を挙げることに異を唱える者はいないだろう。
乱暴に言うなら、彼の著作『ヒットの崩壊』は、主にゼロ年代から2010年代のポップ産業における、ヒットを生み出す構造の変化にフォーカスを当てた書物であり、そうした構造変化と共に、ポップ音楽とその受け手であるリスナーの関係性そのものにいくつもの変容が生まれたことを示すものでもある。
と同時に、『ヒットの崩壊』というタイトルとは裏腹に、多くの市井の人々が自らが暮らす時代を考える上での「対話のプラットフォーム」として機能するだろう、新たな「ヒットの誕生」を祝福する書物でもある。つまるところ、この『ヒットの崩壊』という作品は今に対する厳しい批評である以上に、これからの未来に対する可能性とヒントをちりばめた「希望の書」でもあるということ。
それゆえ、本稿を企画するに至る当初の発想は、彼がその著作『ヒットの崩壊』で何よりも書こうと務めた「ヒットの崩壊、その後」について語ってもらおう、ということだった。
つまり、3回に分けてアップされる本稿の目的は、特にそのタイトルから、「音楽そのものではなく、音楽を取り巻く状況について、しかも悲観的なことばかりが書かれているのではないか?」と感じることで、いまだ本書を手に取っていない読者に対して、この書物が「希望の書」であることを示すこと。
そして、音楽を取り巻く状況だけでなく、そこから可視化された新たな才能や音楽に対する著者のエキサイトメントを伝えようとするものでもある。と同時に、既に『ヒットの崩壊』という書物を手に取った人々に対しても、改めてこの書物を読み直すことの提言でもある。
もうひとつの目的は、2010年代のポップ・カルチャーを巡る重要な論客のひとりである「柴那典」という書き手のアイデンティティをより明確にすること。より踏み込んだ形での「著者インタヴュー」だと思ってもらえればいい。
ここでのインタヴュアーである筆者は自分自身の書き手としてのスタンスを敢えて「柴那典」のそれと比較/対立させ、そこから生まれるコントラストを示すことで、彼のアイデンティティをより明確に浮き彫りにするという手法を取った。明確な目的があったとは言え、必ずしも心地よいだけではなかっただろう対話の席についてくれた彼に、この場を借りて感謝の意を伝えたい。
ただ結果的には、これまでもずっと「柴那典」という書き手を支持してきた読者にとっても、少しばかり距離を感じていたかもしれない読者にとっても、何かしらの新たな視点を与える内容になったと自負している。つまり、もしこの記事のしかるべき副題があるとすれば、『柴那典、その可能性の中心』といったところか。
それゆえ、この拙稿に目を通していただいた読者に期待するのは、ここで話されたことで何かしら『ヒットの崩壊』という書物を読んだ気分になるのではなく、実際にその原典に触れてほしい、それに尽きる。おそらく『ヒットの崩壊』という書物がまた別な言葉で語りかけてくるはずだ。では、始めてみよう。
田中宗一郎(以下、田中)「まず今回の『ヒットの崩壊』は何年ぶりの著作になるんでしたっけ?」
柴那典(以下、柴)「3年ぶりですね。2013年の『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』以来です」
田中「じゃあ、まず最初にそもそも柴くんが『ヒットの崩壊』という本を書こうと思った一番のモチベーションと、ここ3年ほどの間の問題意識の関係について教えてもらっていいですか?」
柴「問題意識としては『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』と繋がっています。あれは単なるボカロカルチャーの紹介本ではなくて、メインテーマは音楽とインターネットなんですね。ゼロ年代以降、インターネットというアーキテクチャーが出てきた後のポップカルチャーをそれ以前の音楽史と接続しようという意図がある。なので、インターネットによって音楽が広がっていく経路がこう変わりました、というストーリーを書いている」
田中「なるほど。すごく乱暴に言うと、ボカロについての本というよりは、創作された作品とインターネットっていうアーキテクチャーの関係にフォーカスを当てたかった?」
柴「そうです。で、その本でも書きましたが、5年前からある僕のモチベーションとしては、とにかく“音楽不況”という言葉を過去のものにしたかったんですよ。たかだかCDというパッケージメディアの売り上げの数字が下がってる程度で『終わりの始まりだ』なんて嘆いたりシニカルなことを言ったりしている人たちに対して強い苛立ちがあった。2012年の時点でブログに書いてますけれど、僕は衰退にはベットしない、という決意表明のようなものがあった」
柴「2013年の時点でも、『もう今さら“音楽不況”なんて言わなくていいよね?』という気持ちはあったんです。でも、世間の認識はまだまだ根強く変わっていなかった」
田中「なるほど」
柴「それに、『初音ミク~』はボカロの本だったので、『あれはああいう特殊な事例でしょう』と片付けられてしまう懸念があった。だから、あれを出した後に、J-POPの本を書かなくてはならないという問題意識がずっとあったんです」
田中「なるほど。つまり、前作と同じ問題意識の流れの中に今作もある?」
柴「はい。J-POP、日本のロック――つまり、僕が主戦場としているマーケットですね。そこにおいて同じように生じているインターネットとソーシャルメディアの普及以降の変化を書きたかった。そして、その結論はポジティヴなものにしたかった。モチベーションとしてはそこが大きいです」
田中「ただ、『ヒットの崩壊』っていうタイトルは、ともすればネガティヴにも捉えられがちじゃないですか? そこの意図については?」
柴「僕はウェブメディアを長くやっている人間でもあるので、なんらかのネガティヴな言葉がタイトルにあった方がフックになるのは経験上わかっていたんです」
田中「わかります(笑)」
柴「でも書く中身が間違いなくポジティヴなものになる自信はあったので、そのフックは使ってもいいだろうという判断がありました。ちゃんと中身を読んでもらえば、『ヒットの崩壊』という言葉に旧来型の“ヒットの方程式”とされていたものの崩壊という意味を込めた、ということが伝わると思ったんです。少なくとも音楽カルチャーやエンタテイメントが今後キツくなっていくという主張を込めた本ではないことはわかるだろうと」
田中「なるほど。前作の『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』から通じて、一般的なシニカルな視点を過去のものにしたい、その次に起っているエキサイティングな未来に光を当てたいというモチベーションが柴くんにはあったわけですよね」
柴「ですね」
田中「じゃあ、今作を書くにあたって、柴くんが一番エキサイトしていた動きは何ですか? 柴くんに何かしらの希望的観測があり、その兆しを感じるからこそ、シニカルな視点を過去のものにできると感じたわけですよね?」
柴「これは幾つかあります。ひとつ目は一章で書いた部分。ベテランのロックバンドがしぶとく活動を続けている。しかもここ数年、怒髪天とかフラワー・カンパニーズとかTHE COLLECTORSが武道館公演を実現したり、人間椅子のように90年代のバンドブームの荒波に飲まれたバンドが2010年代になって動員を増しているという事実がある。ブームが去った後にどうするべきかというのは、実は『初音ミク~』でも書いていたことで」
柴「『ブームは去ってもカルチャーは死なない』というのは、あの本の中心的なモチーフであり、最終的な着地点になっているんです。で、ロックバンドもああいう形でブームを乗り越えて続いている。カルチャーが死なない、それは希望だなと思った。それがひとつ目です。実は、最初は、それだけで本を一冊書き切るつもりだったんですよ」
田中「ああ、最初はそうだったんだ?」
柴「だけど、もう一方で『ある種の浪花節だけじゃないぞ』という思いもあった。海外、特にアメリカでは数年前から完全にCDが過去のものになった。ストリーミングサービスが覇権を握るようになり、そのことで単に『音楽が売れない』という問題意識とは全く違う角度の事象が生じるようになった。それが最後の六章に出てくる、ロングテールとモンスターヘッドの相克の話です。つまり、かつてはインターネットの普及が多様な商品やサービスが少しずつ売れる『ロングテール』という現象をもたらすと考えられていたけれど、今の現実は話題のものにみんなが群がることによって、ヘッドの巨大化が進んでいる。ジャスティン・ビーバーが代表するようなモンスターヘッドがより強い影響力を持つようになっていく。これは音楽の話だけどメディアの話でもあって、編集者の佐藤慶一さんがヴィヴィッドに反応してくれたのはそこなんです」
田中「なるほど」
柴「そしてストリーミングが前提となった世界で、ポップ・ミュージックがこれまでとは違った形に変わっていく。そこには僕自身もすごくエキサイトしています」
田中「うん、わかります」
柴「ただ、これを善しとするか悪しとするかの判断は、まだついてない。編集者の佐藤さんとの最初の打ち合わせでも『僕はこの問題に対しての処方箋は持っていません』と言ったんです」
田中「つまり、ストリーミング・サービスの一般化という現象がポジティヴな兆しなのか、むしろネガティヴな動きに連なるものなのか、判断がつかないところがあった?」
柴田「そうです。でも『いや、でもここは面白いんで掘り下げましょう』という話になったんですね。大きく言えば、僕が感じる“兆し”はそのふたつですね」
田中「なるほど。では、柴くんが『ヒットの崩壊』の六章で書いている後者の問題。ストリーミング・サービスが一般化した世界が幸福な世の中なのか、ディストピアなのか、まだ判断がつかないっていうことについて。ここをもう少し微分して考えてみましょう」
柴「はい」
田中「この問題について、この部分に関しては希望的観測を持っている、この部分に関しては懸念を持っている、そんな風にふたつに分けて読者に向けて話してもらっていいですか?」
柴「これは逆に、タナソウさんに訊きたいっていう気持ちがあるくらいなんですけど(笑)」
田中「そっか(笑)」
柴「でも、希望的観測は間違いなくありますね。そのひとつは、音楽に触れるのが格段に手軽になったこと。よく言われている喩えだと、蛇口をひねれば水が出てくるかのように、アプリを立ち上げれば最新の音楽が流れてくる。例えばSpotifyに最適化したスピーカーが家にあれば、加湿器のように音楽を日常の中に溶け込ませることができるわけです」
田中「ですね」
柴「もちろんアーティストがその状況に対していろいろ言いたいことがあるのはわかります。『俺の音楽は作品であって水ではない』ということですよね。その気持ちはわかったうえで、これはすごくいいことだと思っています。なぜなら、音楽はあらゆるカルチャーのなかで、一番“ながら”で楽しむことが可能なものなであるし、それを活かしたアーキテクチャーが増えている。それと、大きいのはストリーミングサービスの普及によって90年代末から下がり続けてきた世界全体の音楽ソフト市場の数字が底を打って、2015年に拡大に転じたということですね。これは喜ばしいことだと思うし、この流れがもう一回覆ることはおそらくないだろうと思います」
田中「なるほど。じゃあ、懸念点の方は?」
柴「懸念してることは、ポップミュージックの文化としての多様性が損なわれるんじゃないか、ということですね。それはアプリやサービスだけではなくて、音楽にまつわるメディアとかコミュニティも含めて、すべて複合的な変化として起こっていることだと思うんですけど。モンスターヘッド、すなわち限られた数の“勝者”がどんどん影響力を増していく。で、マイノリティはよりマイノリティ化していく」
田中「今まさに起ってることですよね」
柴「この間『世界の大富豪上位8人の資産が下位36億人の富に相当する』というニュースを見ましたけど、それと同じように、聴かれている数とか向けられている興味の数が、どんどん寡占化されていくんじゃないかという不安もあります」
田中「なるほど。じゃあ、ちょっと整理しましょう。まず懸念点について。当初、アーティスト側からストリーミング・サービスに対してのリアクションがたくさん出ましたよね。代表的なのはニール・ヤングとレディオヘッド」
柴「はい」
田中「ニール・ヤングは、自分の作品が簡単に安価で聴かれることに対してというよりは、アナログで録音した自分のハイクオリティな音源が圧縮された音源で聴かれることに対してのノーだった」
柴「そうですね」
田中「レディオヘッドの方は、柴くんが後半に話してくれたこととも関わるんですが、新しいアーティストがフィジカル作品を売って、ツアーをすることで作品をプロモートするという旧来の形態ではなく、ストリーミング・サービスを軸にしてプロモーション活動するとなった時に、なかなか発見されなくなってしまうのではないか? あるいは、そのロイヤリティの額から言っても活動できなくなってしまうのではないか? という懸念があった。そうした視点を軸に彼らはストリーミング・サービスに対してノーを言ったわけです。そこはまず常識として読者に知っておいてもらいたい」
柴「ええ」
田中「で、今、柴くんが話してくれた主な懸念っていうのは、聴かれる音楽が一ヶ所のみに集中してしまうことですよね? つまり、レディオヘッドの懸念とも繋がっている。実際、それは本当にその通りだと思うんですよ」
柴「はい」
田中「ただ、柴くんと僕の視点は少し違うんだな、と思った点がひとつあって。柴くんは送り手側が作ったシステム、あるいは、そのアーキテクチャーなりシステムを作った利権を持っている人たちがこうした場合にこうなるだろう、っていう発想で見るじゃないですか? つまり、川上からの視点ですよね。でも、俺、わりと川下から考えるんですよ」
柴「なるほど」
田中「利権が一ヶ所に集中しちゃうこと、世界の富を8人が握ってしまうこと。これは誰が悪いのか? おそらく普通は、その8人、もしくはその8人をサポートしたシステムに問題があるんだって考えると思うんです。でも、ここ5年、俺が考えてること――俺のかなり身勝手な問題意識で、ちょっと頭のおかしい考え方なんですけど(笑)」
柴「はい(笑)」
田中「それは、『そういう状態を猛烈に後押ししてるのは、むしろ残りの99%の人たちなんじゃないか?』っていう視点なんです。おそらくストリーミング・サービスが全世界的に浸透したときに、一点に集中していくっていう構造は加速すると思うんですよ。もちろん、一番最初にその状況を作ったのはシステム側なんだけど、それを加速させていくのはむしろ受け手側だと思うんですね」
柴「そこに関しては僕も全く同意です。で、あえて意地悪な混ぜっ返しすると、トム・ヨークは見誤ったなって思いますね」
田中「というと?」
柴「彼はSpotifyに対して『新人が支援されない。フックアップされなくなる』って言ったけど、その後に、一体だれがフックアップされていったか? を考えてみるべきだと思います。例えば、チャンス・ザ・ラッパーはその筆頭ですよね」
Chance the Rapper ft. 2 Chainz & Lil Wayne / No Problem
柴「で、その結果、レディオヘッドは結局、ストリーミング・サービスに自分たちの全カタログを譲り渡したわけじゃないですか」
田中「そう。だから、去年というのは本当に象徴的な年なんですよ。ニール・ヤングとレディオヘッドっていう、それまでストリーミング・サービスに異を唱えていた二大アーティストが、両方ともストリーミング・サービスに曲をシェアするようになったんです」
柴「そう」
田中「じゃあ、トム・ヨークが見ていたこと、見ていなかったこと、このふたつに分けて考えてみましょう。そうすると、彼が見てた部分はそんなに間違ってなかったと思うんですよ」
柴「なるほど」
田中「チャンス・ザ・ラッパーが出てきたときに、最初から既存のシステムを使っていたかと言うと、使っていなかったんですね」
柴「SoundCloudやTuneCoreのようなサービスは使っていたと思いますけどね」
田中「と同時に、勿論、YouTubeも使っていた。ただ、当初はSpotifyやApple Musicとは距離を取っていたわけです。彼について語るときによく言われる、大手のレーベルやマネージメントと契約しなくてもやっていけるんだ、っていうスタンスは本当は軸ではなくて。ポイントは、彼は収益構造が担保されている既存のプラットフォームを使わなかったことだと思うんです。あくまでフリー、無料であることにこだわった」
柴「はい」
田中「そこはわざわざ自分のソロ作品をもはや時代遅れでさえあるBitTorrentを使って、フリー配信したトム・ヨークのスタンスとも繋がるとも言える。ただ、無料のミックステープも山ほどリリースされているから、リスナーも全部は探し切れない。だから、それをまとめている〈DatPiff〉みたいなサイトが機能した。チャンスとかを発見したリスナーは、〈DatPiff〉に集約された多くのミックステープからピックアップするという形を取ったんだけど」
柴「それは間違いないと思います」
田中「でも、もう〈DatPiff〉も誰も見なくなったんですよ。少し大袈裟に言うと。っていうのも、ヤング・サグにしてもチャンス・ザ・ラッパーにしても、無料のミックステープ・カルチャーから出てきた作家たちが、SpotifyやApple Musicのようなプラットフォームにも作品をシェアするようになったから。それが去年、一昨年の話ですよね。だから、ここ5年の間にいろんな変遷があるんですね」
柴「そうですね」
田中「それを踏まえると、第三者に利権を受け渡しちゃダメだってトム・ヨークが言っていたのはやっぱり正しかったと思うんですよ。チャンス・ザ・ラッパーのような才能が発見されたのはミックステープを無料で配信するというカルチャーを通してだった。SpotifyやApple Musicのように利権の一部を受け渡さねばならないプラットフォームを通してではなかった。ただ彼が見誤っていたのは、そういう選択肢もあるということまでは発想できていなかったこと」
柴「はい」
田中「ただその後、だれもがSpotifyやApple Musicのように利権の一部を受け渡さねばならないプラットフォームにも作品をシェアするようになった。発見されてから、さらにビッグになるためにはそうせざるをえない。で、今起っているのは、プラットフォーム同士のコンテンツの奪い合いですよね。だから、いろんなものがねじれの位置で進んでると思うんです。そう考えると、少なくともトム・ヨークはもっとも早い、しかるべき時期に“炭坑のカナリア”という役割をしっかり果たしたと思うんですね」
柴「なるほど。じゃあ、さっきも少し言いかけましたけど、タナソウさんが感じているストリーミング・サービヴィスについての希望的観測や懸念点についても教えてもらえませんか?」
田中「Spotifyみたいな利権を持ったプラットフォーマーについて思うのは、彼らは『我々はNapsterではないんです、YouTubeではないんです。非常に透明性の高い形でアーティストにロイヤリティを支払ってます』っていうところがひとつの売りじゃないですか?」
柴「そうですね」
田中「時折それがムカついて仕方ないところもあるんですね(笑)」
柴「なるほど、そうなんですね」
田中「その理由というのは、『むしろNapsterやYouTubeの方が音楽文化を豊かにしたよね?』っていう感覚があるからなんです。YouTubeはアーティストに利益をきちんと還元していないっていう部分で叩かれていて、それはもちろん問題だと思う」
柴「いや、それは厳密には違うと思いますよ。額の多寡はありますけれど、少なくともYouTubeにはコンテンツIDという、権利者に広告収入を還元する仕組み自体はある」
田中「そう。と同時に、今も権利関係を無視したイリーガルな音源や動画がアップされては削除され続けてる。政治的にも倫理的にも間違っているから。でも、今やYouTubeというのは権利関係があやふやであるがゆえにSpotifyやApple Musicにはシェアされない音源にアクセスできる数少ないプラットフォームでもあるわけです。リージョンの問題もあるにはありますが、YouTubeというのは、極論すると、いまだに何でも聴けるんですね。それはここ10年、確実に音楽文化全体を豊かにした。特に作家や研究者にとっては。そういう意味で、いまだにYouTubeは非常に有効なプラットフォームだと思うんですよ。システムでもドラッグでも興業でも何でもいいんだけど、何かしらの文化が花開くときというのは常にイリーガルな存在がその起爆剤になる、というのは歴史が証明してもいるわけです。ただ、それが思ったほど音楽文化を豊かにしなかった」
柴「うんうん」
田中「それがだれの責任かっていうと、リスナーだと思うんですよ。リスナーの主体性さえあれば、YouTubeってどこにでも辿り着く。絶対に手に入らなかったものに手が届く。でも、SpotifyとかApple Musicみたいにきちっと権利をクリアしたものに関しては、ある程度のところで壁が出てきちゃう。『あ、世界の端はここだったんだ』ってことになるんだけど、YouTubeというのは辺境が果てしないんです」
柴「YouTubeとSpotifyやApple Musicとの大きな違いは権利関係の確認が公開前か公開後かということにありますからね。SpotifyやApple Musicは基本的に権利者とサービス側が許諾した音源が公開される。一方でYouTubeやSoundcloudはまず最初に無数の一般ユーザーがどんどん音源や動画をアップしてしまう」
田中「でも、それをリスナーは豊かさとして活用できなかった。むしろ貧しさを求めたんだな、という実感がある。豊かさよりも便利さを選んだ。で、今、Spotifyがだれよりも自らの正統性を主張して、音楽業界全体の中心に君臨している。これは決して愉快なだけの話ではないと思うんですね。で、こうなった原因というのは、プラットフォーム側だけではなく、僕自身も含めて、すべての生活者にあると思う。まあ、これを読んだだれもがムカつくと思うんだけど(笑)」
柴「前にタナソウさんと話したときに、タナソウさんは自分を“ファシスト枠”に位置づけているって言ってましたよね? なるほど、これは本当にファシスト的な発想だなって思いました(笑)」
田中「まあ、自分が間違いなくファシスト属性を持っているということに常に脅えているわけです」
柴「ただ僕のスタンスは一貫していますね。エンドユーザーの欲求が貧しいという立場には立たない。リスナーが自分の知っている範囲の快楽を求めることについては『然るべき』と思ってるんですよ。ここで僕があえてタナソウさんと相対するスタンスを取るならば、音楽文化を豊かにするかどうかというのは、その欲求の流れに沿った形でフックアップされたアーティストやその周囲のチームが次に負わなきゃいけない責務が大きいと思っていて」
田中「なるほど」
柴「例えばファンという存在が生まれた途端に、多かれ少なかれ、ファンの期待というものが生じる。例えばシーンやムーヴメントが生まれたときには、そのトレンドが可視化される。そうすると、アーティスト本人や周囲のスタッフはファンの期待、もしくはトレンドの流れに乗っかっていきたいという欲求も生じるし、乗っかった方が安全だという判断も働く。それは僕もある程度までは正しいと思うんです。でも、ひとつの潮流が明確な形で生まれたときに、その潮流に自らを最適化させることは、その人自身の才能を棄損する行為だと思っているんですね。僕はこれを“最適化の罠”と呼んでいます」
田中「なるほど。その“最適化の罠”というのはとても重要なコピーですね」
柴「一方で、僕はリスナーの行動に責任はないと思っている。もちろんたくさんの選択肢が開けていたほうが豊かだとは思います。でもその一方で、リスナーは自分が聴きたいもの、自分が知っている範囲の快楽、自分の目に見える範囲の格好よさを好きなだけ追い求めて享受して、それで責められることはない。蛇口から美味しい水が出るなら、それを美味しく飲むのが素敵な生活だと思っているんです」
田中「要するに、今のは送り手側から受け手側への構造モデルの話ですよね?」
柴「はい」
田中「それって、ちょっと封建社会っぽくないですか? 『カムイ伝』ていうか、白戸三平が描く江戸時代っぽくないですか?」
柴「ええと、ちゃんとイメージを共有したいので、噛み砕いて説明してもらっていいですか?」
田中「要するにね、作家が、ある種の君主として、制度とその制度に乗っかっているコンテンツを供給するっていうシステムがあって、それを受け取るリスナーっていうモデルそのものが封建社会っぽいと思うんです。柴くんの話だと、エンド・ユーザーが“まだ自分自身では自覚できていない欲望”の可能性というのは、そこに存在しないわけじゃないですか。『あなたたちが必要としているものってこれですよね?』っていうのを、送り手側が下々の者に投げて、それをある程度の選択肢の中で下々の者が選んでいくっていうモデルじゃないですか?」
柴「なるほど。わかりました。でも、それは僕の言っているイメージとはかなり違いますね」
田中「柴くんのイメージをもっと上手く伝えられる例えなり、モデルは、何か他にありますか?」
柴「まず送り手と受け手を上下で分けるイメージはないです。今の時代、表現者と受け手を区別するという発想自体もすでに瓦解しつつあると思っていて。『一億総表現社会』という言葉はさすがに幻想だとしても、それでも40人のクラスがあったら10人は表現する側に回っているくらいの社会はすでに実現している」
田中「なるほど」
柴「だから、イメージしているのは、むしろ西部開拓ですね。ゴールドラッシュ。アーティストには、西に向かって金脈を探し出して一攫千金を狙う無数の採掘者のようなイメージを持っている。金というのはマネーでもあるし承認でもあると思います。そして、その中でも優れた才能を持った一握りは実際に富を手にする。ただし、結局だれよりも儲けたのは採掘者にジーンズを売る人たちだったという。僕のイメージする西部開拓時代のジーンズメーカーがインターネット時代のプラットフォーマーです。で、人々の欲望は、金ぴかのものを身につけたい、かっこいいジーンズを穿きたいということ。そういうモデルを僕は考えています」
田中「それがやっぱりね、“用意されたものを選択する”っていうニュアンスに俺は感じるんです」
柴「うーん、そうですか?」
田中「10人に1人が表現者になっているっていう視点を柴くんは持っているじゃないですか? 俺はそもそもクリエイターってそんなに偉いとは思ってないんですよ。クリエイターよりも偉くて、クリエイターよりも創造的で、然るべきクリエイティヴィティを持つべきであるのは、受け手だと思っているんです。受け手の方が偉いと思っている。すべてを変えるのは受け手だと思ってるんですよ」
柴「ええ」
田中「単純な話、『音楽が生まれるのはいつだ?』と尋ねられたら、クリエイターが作った瞬間だとは思っていない。それを第三者が聴いて、何かしらのフィーリングを受け取ったとき、それを知覚した瞬間に音楽は生まれると思ってるんですよ。だから、責任があるのも、一番偉いのも受け手。受け手の知性や聡明さ、良心、その能動性や想像力こそが文化を花開かせるすべての鍵を握っていると思っているところがある。乱暴に言うと、作家や作品は単なる触媒にすぎないとさえ思っている」
柴「なるほど」
田中「にもかかわらず、あなたたちが一番偉くて、あなたたちがすべての鍵を握っているはずなのに、お上が差し出してくれるものを受け取っているだけで大丈夫なんですか? っていう視点ですね。なおかつ、今ってネットの構造的にもそうですけど、エコーチェンバー化した自分自身の環境で物事を受け取ってしまって、十二分に充足してしまう。欲望そのものが野卑なものではなく、飼いならされている状況にもあると思ってるんです。それはこの20年間、インターネットの発達とともに加速してる。これは自分自身も逃れられていない罠なんですが、かなり厄介だな、と思っているわけです」
柴「ええ」
田中「もうひとつ、ゴールドラッシュというモデルに関して言うと、以前、初期くるりをモチーフにして、日本のポップ・シーンにおける〈98年の世代〉が生まれたメカニズムについての文章を書いたことがあるんですね」
田中「あの時に書いたのは、『すべての辺境に足が踏み入れられた後に必ず始まるのは分割だ』っていう話なんですね。あそこでは以前なら手に入らなかったバックカタログがCD化されることによって、ゴールドラッシュが始まって、それが〈98年の世代〉を生んだ。でもその後、分割期が始まって、日本のポップ・シーンは貧しくなったっていう論旨だったんだけど、ネットのプラットフォームにおける覇権がYouTubeからSpotifyに移行した今というのはまさにゴールドラッシュの後の、分割期だと思うんですよ」
柴「なるほど」
田中「東から西に金鉱を探して移動していった、そして一通り全部金鉱が掘られちゃった時に起こるのは分割です。それぞれの資本、それぞれのエリアの利権が分割されていく。で、ゴールドラッシュの時期と分割の時期は必ず交互にやってくるんですよ。プラットフォームやマーケットが変わるたびに」
柴「そうですね」
田中「で、その分割期に入った時期が、まさに2016年だったのかなと」
柴「ああ、なるほど。話しててわかりました。タナソウさんと僕の現状認識はかなり共通しています。その上で、苛立っているというスタンスを取るか、変化に適応しようというスタンスを取るかの違いだと思いました」
田中「なるほど。それに補足すると、俺、適応って言葉が好きじゃないんです(笑)。柴くんはファッション、流行は好きですか?」
柴「僕は自分のことをミーハーだと思っています」
田中「だよね。そこは間違いなく柴くんが書くものすべてのアドヴァンテージだし、俺自身もシェアさせてもらっているところだと思うんですね。ただ違いがあるとすれば、流行、ファッションというのは適応するものじゃないと思ってるんですね。むしろ、間違った使い方をして利用して、超えていくものだと思っている。それは本当に音楽文化に教えられてきたところがあるんだけど。提供されたプラットフォームなり、提供された作品っていうのは、間違った形で再定義しなくちゃいけないんだっていう意識があるんですよ」
柴「具体的に言うと、どういうことですか?」
田中「例えば、ターンテーブルっていうのは、そもそも一枚のヴァイナル・レコードをかけるものだった。でもヒップホップという文化は、同じ二枚のレコードをふたつのターンテーブルに載せて、同じひとつのブレイク・ポイントを見つけてブレイクビーツを作り出す、っていう発想をしたわけです」
柴「まさにターンテーブルやレコードの間違った形での再定義ですね」
田中「もしくは、クラシックは20世紀に入るまで隆盛を極めていた。で、20世紀初頭からジャズがそれを凌駕する。その後に、50年代、60年代にロックがそれを凌駕するわけじゃないですか?」
柴「そうですね」
田中「で、ジャズやクラシックになかったロック音楽の一番アドヴァンテージは何だったかって言うと、音色というものが、リズムとか和声とか、他の要素よりも音楽にとって重要なんだって示したことだと思うんですよ。それって、作曲や編曲以上に“プロダクション”こそがポップ音楽の中心にあるという今の状況を準備した大いなる転換だと思うんですね。例えば、ロックンロールの始まりだと言われている“ロケット88”」
Jackie Brenston & His Delta Cats / Rocket 88
田中「この曲ではたまたまギター・アンプが壊れて音が歪んでしまったけど、それをそのまま使った。そして、それが結果的に、ロックの始まりだと位置付けられるようになった。だから、与えられたものを間違った形で使用することによって、適応するのではなく、越えていくことが何かしらヒントに繋がると思っているんです」
柴「なるほど、分かりました」
田中「だから、適応しちゃいけない。お上から与えられたものは間違った使い方をしなきゃいけない。それこそがリスナー、受け手のクリエイティヴィティだし、アクティヴィティだし、アクチュアリティだし。それこそが物事を豊かにする変革の火種なんだっていう発想があるんです。だから、ストリーミング・サービスがようやく日本に上陸したことに対するエキサイトメントと不安っていうのは、受け手がそれをどれだけ乱暴に使うことができるか、プラットフォーマーが予想もしなかった間違った使い方をするか、それがすべての鍵だという気がしてるんですね」
柴「ああ、そうですね」
田中「じゃあ、ストリーミング・サービスの話で言うと、SpotifyとApple Musicの違いについてはどう思います?」
柴「Spotifyって楽曲の再生回数が表示されるんです。それによるランキングもサービスの目立つ位置にある。対して、Apple MusicもGoogle Play MusicもAmazon Prime MusicもKKBOXも、Spotify以外のサービスは、現状、再生回数が出ないんですよ。つまり個人が自分の好きな音楽を好きなだけ聴けるというサービスという打ち出しでしかない。Spotifyだけ他人の行動が数字の形で可視化される。これがとても強力。ちなみにもうひとつ再生回数の数字が出る巨大なサービスはYouTubeですね。そしてこれが『ヒットの崩壊』の第二章で書いているヒットチャートの話と関連するんですけど、つまり、人は数字でしか判断できない」
田中「(笑)そう、まさにその通りなんです」
柴「うん。SpotifyもYouTubeも、100万回再生、1000万回再生、1億回再生という数字が独り歩きできるサービスである。それがプラットフォームの優位性に繋がっていると思っています。これは批評の放棄でもあるんですが、例えばAという曲とBという曲がある。どっちが優れていますか? どっちがいい曲ですか? っていう時に、言葉を尽くしてそのよさを説明することはできますよね。でもAは100回、Bは1億回となると、多くの人は数字の持つ力には抗えない。ここに関しても――僕は“適応”って言い過ぎですけど――まずはそれを受け入れることからスタートしようっていうスタンスですね」
田中「でもさ、柴くんの言葉の選択の話なんだけど、適応とか、受け入れるとか、ちょっとしんどい感じがしない?」
柴「ははははは、たしかに(笑)」
田中「俺が引っかかるというか、老婆心ながら心配になるところがあるとすると、それですね。『もっと無責任でいいんじゃないか?』と思ったりもします。ただ、僕自身もストリーミング・サービスが一般化したことには、やっぱりエキサイトしているんですよ。特に日本への本格的上陸に関しては。ブレクジットであろうがドナルド・トランプが大統領になろうが、変化っていうのは、良くなるにしろ悪くなるにしろ、ずっと同じ状態よりは遥かにエキサイティングだと思うんです」
柴「そうですね」
田中「そういう意味では、ストリーミング・サービスにはエキサイトしています。ただ常に考えるのは、やっぱりNapsterの時の方がエンド・ユーザーがクリエイティヴだったこと。で、便利になればなるほど、知らず知らずのうちにエンド・ユーザーのクリエイティヴィティが削がれていく、もっとも粗暴で無責任であるべき欲望がありきたりのものになっていく、それは常に感じてしまうんですね。どんな変化の時もそれだけが気になるんです」
柴「うんうん、なるほど」
田中「じゃあ、『ヒットの崩壊』について、もうひとつ訊かせて下さい。この本は『ヒットの崩壊』っていうタイトルでありながら、来たるべき新時代に対するエキサイトメントを書いた。要するに、希望の書ですよね。そういった部分は、読者が100人いれば、どれくらいの人にまで伝わった実感がありますか?」
柴「僕は希望の兆しがふたつあるって最初に言いましたよね、その前者が伝わっている人もいるし、後者が伝わっている人もいると思います。そういう意味では半々ですね。半分は両方が伝わったと思いますけれど、もう半分では、両者は交わってないとも思います」
田中「その交わっていないっていうのは、どういう風に分析しているんですか?」
柴「うーん、意地悪な質問ですね(笑)。まず、この本では僕はかなり意図的に“現場”という言い方を使っているんです。それはライヴの現場をイメージできるようにしている。『ヒットの崩壊』では『現場に価値がある』ということを書いている。だから、そこにいる人たち――端的に言うと、アイドルファンやフェスのオーディエンスのような人たちには、 “現場”という言葉で僕が伝えたいことがダイレクトに伝わっている実感がある。結局、『ヒットの崩壊』で書いていることは、現場とメディアの対立構造なんですよね」
田中「なるほど、確かに」
柴「マスメディア発信で仕掛ける90年代的な“ヒットの方程式”はとっくに時代遅れのものになった、ヒットチャートをハックする方法も無効化した。そして結果としてテレビの音楽番組もフェスの方法論を取り入れた。ライブという“現場”の勝利を書いているのがこの本の前半のストーリー。第五章は別の話ですが、第六章では、もう一方で、メディアのプラットフォームや、それによってエンパワーされたモンスターヘッド的な個人の持つ影響力に人々の趣向が左右されてしまうかもしれないという話が来る。こっちはディストピア的な方向性。そのふたつを書いているんです」
田中「そうですね、まさに」
柴「だから、ライヴの“現場”にいる人たちにとっては、自分たちはマスメディアに勝った、そのトライアンフを祝福するものとして素直に受け取ってくれている。もう半分は、メディアの“現場”にいる人たちですね。そういう人たちは音楽をある種の先行指標にしている。その上で僕の書いたことをひとつの警鐘として受け取ってくれている。半々という風に僕は思っています」
田中「そこを分割するのは、受け手の人たちが柴くんのテキストを読み解くというよりは、その全体から見たいことだけを引き出したってことじゃないですか? 分析するとね」
柴「そうですね」
田中「で、それが今まさに起こっていることだと思うんですよ。さっきから僕がねちっこく話してきたことですよね。それがここ20年、加速してきた。それは、10年、20年かけて、個人個人の自意識にインターネットが作用してきた結果だと思う。俺の問題意識はそこなんですよね」
柴「なるほど」
田中「でも、どうですか? 『ヒットの崩壊』は、インターネット以降の状況と音楽の関係の話を、柴くんが主戦場にしているJ-POPや日本のロックを主なモチーフにして書いている。じゃあ、柴くん自身は書き手としてインターネット以降の状況と、どのように向き合っているのか? もしくは、どのように向き合ってきたのか? ということを教えて下さい」
柴「まず前提として、僕はインターネットにエンパワーメントされた書き手だと自分のことを思っています」
田中「じゃあ、ネットでエンパワーメントされたこと自体、柴くんの書き手としてのスタンスとか、問題意識に何かしらの影響を及ぼしたと思いますか?」
柴「当然、及ぼしていると思います」
田中「具体的には?」
Photography : 尾田和実 / Kazumi Oda
0コメント