②『ヒットの崩壊』の著者=柴那典、「ロキノンの末席」からの変容


書物というものは何度も読み直されなければならない。そうした視点の下、音楽ジャーナリスト柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』という書物を、著者自身の言葉を借りながらまた別な角度から見てみよう、そんな目的意識から出発した本企画、パート2である。

パート1の内容をごく簡単にレジュメするなら、それは主に彼の著作『ヒットの崩壊』がそのタイトルとは裏腹に、「ヒットの崩壊、その後」に起った、さまざまな変化に対する希望的観測を軸に書かれたことを示そうとするもの。パート1を未読の方はまず以下のリンクから読み進めてほしい。

①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?


つまり、パート1における対話は、「『ヒットの崩壊』の読み方」を巡るものだ。そして、このパート2から語られているのは、主に「柴那典の読み方」だと思っていただきたい。

まず確認しておこう。誰もが「柴那典」という書き手に対して認めるだろう圧倒的な優位性とは、彼が有するデジタル・ネイティヴ的な視点にほかならない。その鋭利な問題意識とそれを担保する膨大な情報量は、数多くのポップ音楽についての書き手と比べれば、間違いなく抜きんでている。彼自身、自らを「ネットでエンパワーメントされた書き手」と認めているが、それは単に彼がオンラインを主戦場にすることでその存在感を増してきたことだけを指すものではない。

以下の対話の中で、柴那典は「2008年の初頭にブログを始めた時に、自分のスタンスとして、誰かを貶めない、できるだけ悲観的にならないと決めた」と語っている。この言葉は書き手としての彼のアイデンティティのひとつを明確に示すものだ。ただ、それが副次的に引き起こす作用として、彼には「八方美人」というタグ付けがなされる場合もある。彼が取り扱うモチーフがどちらかと言えばポピュラリティを持った事象に向けられることが多いせいもあって、一部ではそうしたパブリック・イメージが固定しつつあるかもしれない。

だが、柴那典が書くものの興味の大半は、そのモチーフにせよ、テーマにせよ、その視点にせよ、我々の生活にインターネットが一般化する以前、今から20年前には起りえなかった事象に対して向けられている。その一点において、彼の仕事は常に一貫している。そうした意味からしても、ポップ音楽を扱うこの島国のすべての書き手の中で、柴那典こそが誰よりもネット時代の申し子なのはまず間違いない。

勿論、それは諸刃の剣でもあるだろう。そうした彼のアイデンティティは、彼自身の選択であると同時に、ネットというアーキテクチャによって、より先鋭化させられたものだと見なすことも出来るからだ。

だが、筆者の知る限り、あるひとりの書き手/言論家がその活動の拠点と読み手とのコミュニケーションの場をオンラインにおくことによって、そのテクストの内容や語り口のみならず、書き手自身のアイデンティティさえも根こそぎ変えてしまうことに、柴那典ほど意識的な書き手はいない。

彼が繰り返し使っている「最適化の罠」というコピーが示す通り、柴那典という書き手は、ネット社会のさまざまな局面における可能性と危険性の両方を凝視し続けながら、自らをその場にさらすことによって、自らの変容さえも仮説立証の実験台として観察し続けている。筆者の私見からすれば、彼が書くものの可能性、そのもっともエキサイティングなポイントは、そこにある。

柴那典が紡ぎ出すあらゆるテクストに触れることの最大の快楽とは、その内容や読後感だけでなく、柴那典という作家がそうした実験の結果をどのように自らのペンに落とし込もうとしているかを読み解くことだろう。敢えて不謹慎な言い方をするなら、そうした視点から読み解く柴那典のテクストはやたら滅法面白い。おそらく以下の対話も、そうした視点から読み進んでもらえれば、かなりの発見があるはずだ。

パート1同様、「柴那典」という特異な書き手のアイデンティティをより明確にするために、インタヴュアーである筆者は意識的にインタヴュイーである柴那典との対立構造を煽る形で対話を進めている。このパートにおける対立の構図は主に、個人やその集積である社会がインターネットというアーキテクチャに長年接し続けることによって巻き起こる変容についての是非にほかならない。では、引き続きお楽しみいただきたい。

田中「では、改めて訊かせて下さい。柴くんはネットでエンパワーメントされた書き手なんだっていう意識を持っている。ただ、ネットでエンパワーメントされたこと自体、柴くんの書き手としてのスタンスとか問題意識に何かしらの影響を及ぼしたと思いますか?」

柴「当然、及ぼしていると思います」

田中「具体的には?」

柴「まずこれは大前提ですけれど、インターネットは個人にエンパワーメントするアーキテクチャである。だから書き手として得たのは個人としての影響力だと思います。単純に言うと、00年代まで、僕は〈ロッキング・オン〉のシバナテンだったんですよ。〈ロッキング・オン〉という雑誌が生み出した、たくさんの個性豊かな編集者/ライターたち――その系譜には、もちろん大先輩としてタナソウさんがいますし、山崎洋一郎さんがいて、鹿野淳さんや宇野維正さんや神谷弘一さんや兵庫慎司さんがいる。これはいみじくも作家の樋口毅宏さんが初対面のときに僕に対して言ってたんですけど、『柴くんは末席だと思っていた』と。つまり……」

田中「舐められてたんだね?(笑)」

柴「そうです(笑)。端的に言うと舐められてた。彼にとっては、思春期に読んだ〈ロッキング・オン〉の書き手として、宇野さんや鹿野さんやタナソウさんが大きな存在である。たぶんダイノジの大谷さんもそう」

田中「いや、樋口くんは特に俺の書くものには興味ないですよ」

柴「じゃあ、そこは訂正します。とにかく、そういう世代の読み手にとって、僕は末席なんです。その理由も自分でちゃんとわかっている。それは、僕が新人でペーペーの時に、〈ロッキング・オン〉という会社がフェスを始めたから」

田中「なるほど」

柴「雑誌でビジネスをする会社から、フェスの現場でビジネスをする会社に切り替わったタイミングに僕はいた。僕と同世代の書き手はそこにアジャストしている。そこにおいては書き手としての個性なんて邪魔なんです。だから上の世代と較べるとキャラ立ちしていない。末席なんですよね。で、僕もその流れにアジャストしていたんですが、あるタイミングで『これはいかんぞ』と気付いた。このままだと音楽ライターはどんどん現場労働者になっていくと思った。そうなった時に、ネットを使って、〈ロッキング・オン〉のシバナテンではなく、自分の書いた文章に〈shiba710〉というスタンプを押していかないといけないと思った。それが2008年の初頭のことです。そこでまずブログを始めた。最初に自分のスタンスとして、誰かを貶めない、できるだけ悲観的にならないということを決めた」

柴「そこからいろいろやってきた結果が、『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』や『ヒットの崩壊』に繋がっていると自己分析しています」

田中「でも、怖くはないですか? ネットを介してプロップスが上がることは。そこに縛られることはないですか? 自分自身の書くものが」

柴「別に怖くはないですね。タナソウさんに『しんどそう』って言われて、『しんどそうに見えるか、そうかあ』と思うところはありますけど(笑)」

田中「俺とかは、自分のプロップスが上がることも、自分のことを理解したと思ってくれる人が増えることも、あんまり好きじゃないのね。むしろ『こいつ、ムカつくけど、たまに一理あるな。なんか悔しいけど、無視できないな』って思われる状態にいたいんですよ。自分のキャリアのステップアップとか、ブランディングってこともあまり考えないの。それ、何より俺のダメなところなんですけど。それはそもそも、一週間経つと一週間前に考えていたことを忘れて、新しいことに興奮してて、またまったく別なことを言っているっていう、自分の体質が呼び起こしたものではあるんですけど(笑)」

柴「なるほど」

田中「ただ、柴くんの場合、ある時から、自分自身のブランディングには意識的になったっていうことですよね?」

柴「そうですね。ただ、僕がネットによってエンパワーメントされた書き手であるという話に、ひとつ付け加えておきたいことがあって。ネットによってエンパワーメントされるというのは、SNSのフォロワーの数がどうこうという話ではないんですよ。若い人たちは勘違いしがちだけれど、実はそれは重要な話じゃない。むしろアーカイヴによってなんですよね」

田中「わかります。紙に比べた時のネットの優位性というのは、実は即効性とか、読者の総数が可視化されるということよりも、やっぱりアーカイヴ性なんですよね」

柴「雑誌はまだバックナンバーという発想があるので、一番対照的なのはフリーペーパーですね。僕、フリーペーパーにもたくさん書いていたんですよ。でもフリーペーパーはメディアとしてのアーカイヴ性がない。たとえ自分の本棚に保存したとしても、そもそもそこに書いていた文章自体が、自分の中で蓄積しないんですよね。ある時、あるアーティストにインタヴューして、60分くらい話を訊いて、そのうちの5分ほどのコメントを使って800字くらいの原稿を書いたことがあって」

田中「あー、よくあるみたいだよね、そういうの(笑)」

柴「そのときに『この55分ってなんだ?』って思ったんです。だから、その使わなかった55分の話から理解したことを噛み砕いて、自分の言葉でブログに記事を書いてみたんですよ」

田中「なるほど。そうしたら、紙に書いていた時とは明らかに違うリアクションがあった?」

柴「ありました。端的に言うと、そのアーティストに読んでもらえて、それまでとは違った関係性が生まれた。人脈とか営業力とかじゃなくて、名前で仕事が来るようになった。書き手としてのブランディングが出来たんです。そしてもちろん、フリーペーパーの記事より深い分析をリスナーに届けることもできた。ブログを使うことで、対アーティストにも対リスナーにもちゃんと回路をつなぐことが出来るんだ、それがアーカイヴになっていくんだと気付いた。それで、ネットにエンパワーメントされたという実感があったんですよね」

田中「なるほど。じゃあ、これまでの二作の著作を経ての、現時点での自分自身での書き手としての目標、課題、問題意識を教えて下さい」

柴「まず目標についてですけど、今は大それた目標はないです。蓄積の段階に再び戻っているっていう感じです。特に現時点では単著をすぐに出すことはやりたくないですね。自分が消費されるのを避けたいという気持ちはもちろんありますし。それに、2016年後半から状況がダイナミックに変化しているので、今はそこにキープアップしていくのが精一杯でもある」

田中「なるほど」

柴「もちろん『ヒットの崩壊』で書いたことは簡単には古びないとは思っていますけれど、フォーカスを当てたのは2016年半ばまでの動きなので、2017年時点でそれが過去になっているのは否めません。でも、オンタイムのことは、その都度その都度メモのように書いています。それはありがたいことに〈リアルサウンド〉とか、いろんなメディアが僕に連載枠をくれているので、そこに書いている。例えば去年の秋にプリズマイザーについて書いたのは自分としては布石になったと思っています」

柴「そして、仮に枠がもらえなくてもブログがあるんで、思いついたらそこに書く。もしくは後から自分が参照するためにまとめておく。例えば『この世界の片隅に』についての記事はそれです」

田中「そこは使い分けているわけですね」

柴「で、次は書き手としての課題ですよね。これは、タナソウさんが暗に指摘している通り、批判をしないということ。ダメなものに対して『ダメ』と言わない。これって、あえて悪い言葉で言うと、八方美人にとられる可能性がある。でも、これはさっきも言った通り、僕が10年以上守り続けているひとつのルールなんですよね。ルールというか、ネット上の作法だと思っています。それはなぜかというと、自分がダメだと思うものに『ダメ』と言ってしまうと、そのダメだと思う対象にアテンションを与えてしまうからなんですね」

田中「なるほど。そのメカニズムというのは、例えば、昨年、三流リベラルがトランプに対して感情的な罵詈雑言を吐き続けたことで、むしろ彼にアテンションを与えることになってしまったっていうことと、構造的には同じ?」

柴「同じです。『炎上マーケティング』という言葉が生まれた頃より事態はさらに先に進んでいると思います。アテンションを獲得することが実際の力の源泉になっている。だから『アテンションを与えない』というのはネット上の作法だと僕は思っています。いいと思ったら声を大きくして言う。ダメだと思ったら、そっとフタを閉じる。言及しない。これが僕の守っている作法です」

田中「なるほど」

柴「これって、一回一回では僕は正解だと思ってやっているんです。ただ、それが積み重なっていくと、結局褒めることしかしていないということになる。そうすると、『あ、八方美人じゃん』となるのは否めないところで。それは結局、シバナテンのプロップスを最終的に下げることにつながりかねない。でも、それは織り込み済みですね。僕はその道を選びましたから」

田中「じゃあ、その道を変える予定はないわけですね?」

柴「今のところないですね。でも、僕がこの道を選んでいることは、ちゃんと言おうとは思っています。それに、アテンションを与えてもかまわないからハッキリ言わないといけないとダメだという、自分の中のスレッジ・ハンマーみたいなものは用意しておきたいですし」

田中「柴くん自身のアイデンティティを際立たせるために、敢えて自分の話をすると、僕自身も『よくないものをよくないと言いたい』っていう動機は特にないんですよ。ただ、おわかりになると思うんですが、俺、ネガティヴなことをすごく言うじゃないですか?」

柴「そうですね」

田中「年がら年中、ネガティヴなことを言ってる。でも、そういう態度のベースにはその対象が作家や作品であろうと読者やリスナーであろうと、対象に対する絶対的な信頼があるからなんです。だからこそ、ネガティヴなことばかり言っている。例えば、デヴィッド・ボウイも遺作『★』の“アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ”で、『ノーと言いながらイエスと言い続ける(Saying no but meaning yes)』って歌ってるじゃないですか? あれこそが批評におけるベーシックな態度だと思うんですよ」


David Bowie / I Can't Give Everything Away

柴「そうですね。具体的に最近の例を挙げると、僕と有泉さんが『MUSICA』の2016年の日本国内の年間ベストにBOOM BOOM SATELLITESの“LAY YOUR HANDS ON ME”を選んだ。それに対して『俺はあの曲は全力で全否定したい』とツイッターでコメントした」

柴「きっと僕と有泉さんは同じ気持ちであの曲を選んだと思うんですけど」

田中「実際のところ、どういう気持ちだったんですか?」

柴「あの作品は、川島道行さんが亡くなったことと切り離して論じられないものであるということを踏まえた上で、あれほど時代に対して、シーンやムーヴメントに対してアンテナを張って批評的に音楽を作ってきた中野さんが、最終的に“対川島”という、ある種の宗教性に飛び込んでいったと思うんです」

田中「ですね」

柴「あの曲ってアニメの主題歌なので海外にも届いていて、YouTubeのコメント見ると、『a-haみたいなメロディだね』ってコメントがついていたりもする。何の文脈も共有していない人からそういう感想が出るのはそうだろうと思いつつ、全てをかなぐり捨てたピュアネスというものに、すごく心を動かされました。でも、タナソウさんがそこにネガティヴなことを言う気持ちもわかります」

田中「あそこではあえて名指しすることは避けたんですけど、どっちにしろ、冷血で人でなしの発言ですよね。ただあの曲、本当に去年一番がっかりした曲なんですよ。音楽的には乱暴に言うと2000年前後のエピック・トランスですよね。彼らが一番忌み嫌って、距離を取っていたサウンドに、構造的にも和声的にもかなり似通っている。でも、最後の最後に、大切な人の死に直面して、打ちひしがれて、音楽そのものがある種の宗教性にかしずいてしまうっていうのは、表現者がもっともやってはいけないことだと思うんですよ」

柴「はい」

田中「去年はニック・ケイヴの『スケルトン・ツリー』という大傑作も世に出た年ですよね。あの作品は作家自身が自らの双子の息子の片方を事故で失ったことが何かしらの契機になったレコードなわけです。でもブンブンサテライツとは、実に対照的なんですね」


Nick Cave & The Bad Seeds / Skeleton Tree

田中「あそこでのニック・ケイヴは、『神はいない』っていう無慈悲さを歌っている。近代的な作家としての矜持を貫き通した。で、それは彼がずっと続けてきたことでもあるわけです」

田中「でも、ブンブンサテライツのふたりはこれまでずっとやってきたことを、あの一曲で台無しにしちゃったと思うんですね。ふたりして台無しにしたのか、中野くんが台無しにしたのか、俺にはわからない。でも、あれは本当に残念だった。っていう余計なことを僕は言うんですけど」

柴「うん」

田中「ただそれは、例えば、3枚目以降のオアシスが駄目だって言わないと、彼らの1stアルバム、2ndアルバムの素晴らしさを台無しにしちゃうってことと同じなんですよ。作品というのは、作家の持ち物でもファンの持ち物でもない。今とこれからのすべての受け手の財産なわけです。その素晴らしさをきちんと担保するつもりがあるのであれば、ノーと言わなければならない時もあると思うんですね。決して楽しい作業じゃない。でも、それは、デヴィッド・ボウイがはっきりとそう歌ってくれる以前から、批評家は誰もが感じていることだと思うんですけど」

柴「なるほど」

田中「音楽評論全般に対してよく言われる退屈な物言いとして、『何かに光を当てるために、何かと比較して、何かを貶めるやり方っていうのは倫理的ではないし、あまりにも安直だ』というのがありますよね? でも、それはあまりに頭のいい視点だなーとも思うんです。もちろん、『批評とは何か?』っていう定義は幾つもあると思うんですけど」

柴「そうですね」

田中「でも、そのひとつは比べることなんですよ。そもそも比べなくていいものをわざわざ比べること。そうなると、結果的に優劣がでちゃう。でも、そもそも優劣を示したいわけではないんです。あるアングルから見ればAの方がBよりも優れている。ただ、別のアングルから見れば、Bの方がAよりも優れている。もしくは3つ目の視点で見た時はまた違う見え方がするかもしれない。つまり、いくつもの視点がある。その“視点”を提示するのが批評だと思ってるんですね」

柴「同意です」

田中「だからこそ、優劣の結果が出ることを恐れちゃ駄目。目的は視点を提示することだから。そんな風に考えています。俺は今話したような意図を今話したみたいに公にしないまま、それをやっている。その意図も含めて汲み取ってほしいから。読者のクリエイティヴィティに対する信頼と期待があるんですね。だから、皆まで言わないで、途中でわざと放り投げたりもする。このBOOM BOOM SATELLITESの一件はまさにその典型だと思います。既存の視点とは違う視点の存在をほのめかすことに留めている。まあ、意地が悪いわけです。でも、根本には読者のリテラシー、クリエイティヴィティに対する信頼があるんですね。あと、柴くんみたいに、これがいい、これがいい、っていうだけの言い方だと、やっぱり視点が伝わりにくいんですよ」

柴「そうなんですよね」

田中「柴くん自身の文脈を読み取るというよりは、『柴くんがAを褒めてくれた。わーい、柴はわかってるな』。『柴くんがBをいいと言ってくれた、わーい、嬉しいな』という現象は起っても、AとBそれぞれのファンとの間にほとんど交通が起らないんですよ。むしろ溝を作ってしまう場合もある。だからこそ、比較しなくていいものをわざわざ比較することによって、そこに交通を促したい。あるひとりの読者がその視点に賛同出来るかどうかは別にして、参考に出来る視点や構造を提示していくことの方がより生産的だと思うんです」

柴「そうですね。それはとても有効なアドバイスとしていただきます」

田中「ごめんなさいね、先輩ウィンド吹かせて(笑)」

柴「僕自身も気付いていることではあるんです。『シバナテンは他の音楽評論家と比べてフラットだからいい』と言われることがある。それは賛辞として受け取りつつも『これは諸刃の剣だな』と自覚しています。フラットっていうのは凪っていうことですからね。エキサイトはそこにはない」

田中「じゃあ、柴くん自身の目標、課題については話してもらったので、問題意識についてはどうですか? 最終的に固まった仕事に繋がっていくかはわからないけど、もしかしたら近い将来に何かしらそこに入り込んでくるかもしれない、そんな普段自分が気にかけている命題は何かありますか?」

柴「大雑把に言うと、僕がずっと追っているのは音楽と社会の接点だと思います。社会学者になるつもりはないですけど、基本的には『この現象がなぜ起こっているのか?』を解き明かしたい」

田中「なるほど」

柴「で、今起こっている現象としては、やっぱりメディアに関しての問題は考えざるを得ないとすごく思いますね」

田中「じゃあ、現時点で、メディアに関して感じることを幾つかパラフレーズしてもらっていいですか?」

柴「まず自分に近いところから語ると、基本的には、ここ10年、日本における音楽のウェブメディアはとてもいい状況だったと思っているんです。それは〈ナタリー〉のおかげだと思っていて。〈ナタリー〉というメディアの立ち上げを大山卓也さんという志のある人が中心になってやったことで、ファン目線でフラットに音楽情報を取り扱うというひとつのテーゼが示されたわけです。それによって〈CINRA〉や〈リアルサウンド〉や〈Spincoaster〉や〈サインマグ〉のようなメディアが示す別のテーゼも生じた。一方でゲームのような他のエンタテインメントに比べると、音楽においては〈はちま起稿〉や2chまとめサイトのような煽り煽られのメディア空間の影響力は削がれていた。その点においてはとてもいい流れだったと思います」

田中「ですね。ただ〈ナタリー〉のコンセプトの根幹のひとつに、フラットってキーワードがあるじゃないですか。批評はしない、キュレーションはしないんだと。100個ある情報を100個読者に投げて、それを読者の主体性で選択してもらうんだ、っていう。これは彼らが立ち上がったゼロ年代のタイミングのアイデアとしては、革新的だったと思うんですね。〈ロッキングオン〉でも〈スヌーザー〉でも〈ミュージック・マガジン〉でも〈ガーディアン〉でも〈ピッチフォーク〉でも〈NME〉でも構わないんだけど、これまでのメディアがやってきたこととまったく逆のことをしたわけだから」

柴「そうですね」

田中「ただ、それから10年近く経って、ひとつ感じるのは――さきほど柴くんの本を読んで、前半のバンドの“現場”の話にエキサイトした人たちと、後半の新しいプラットフォームの変化によって別なヒットが生まれるっていう話にエキサイトした人たちが分断している。そういう話があったじゃないですか? 期せずして、こうした状況を加速させる一因として〈ナタリー〉は役割を果たしたと思うんですよ」

柴「うん、そうですね」

田中「一日に何十もの情報がアップされると、受け手は自分のテイストにあったものをピックアップするだけで飽和してしまう。俺がエンド・ユーザーに何よりも期待している、自分自身のテイストや興味の枠から飛び出していくっていう衝動を削いでいくんですよ。じわじわと。何年もの時間をかけて。確実に。そういう風に作用したっていう視点もある。そういう視点って、ディストピア恐怖症の世迷言だと思いますか?」

柴「それは思いません。まあ、僕は〈ナタリー〉の肩を持つわけではないですけど、タナソウさんの言ったことに対しては、『それは〈FOX〉だって同じでしょう』と答える感じですね」

田中「そう。全般的にそうなってる。実際、ネット・メディアがどういうコンテンツを、どういうタイムラインで、どういう風にサーヴしていくかっていうのは、もう一度問われ直されているタイミングだと思います」

柴「そうですね。〈ナタリー〉以降の日本の音楽ウェブメディアの状況というのは、見方によっては凪になっているタイミングでもあるので、次なるカオスがそろそろ生じないとジリ貧だぞ、っていう危機感はあります」

田中「なるほど」

柴「それを前提にした上で、メディアに関しての自分の大きな問題意識としては、検索の無効化ですね。これは、端的に言ってとても危険だと思っています」

田中「というのは?」

柴「特にGoogle検索というものが、明らかに役に立たなくなっている。卑近な話ですけど、ヒゲの脱毛をしようかなと思った時があって(笑)。その時に実感したんですが、脱毛やダイエットのようなコンプレックス・ワードで検索すると特に検索結果の汚染が甚だしい。例えば『脱毛 口コミ』で検索すると、Googleで出てくるページのトップ100くらいまではSEO対策されたサイトなんですね」

田中「あー、なるほど!」

柴「僕が知りたいのは、痛くないかどうかとか、どこのクリニックが評判いいかという情報だった。でもそんなものはひとつもない。代わりに何に埋め尽くされてるかと言うと、宣伝文句としての体験談を書き連ねたアフィリエイトサイトやブログです。ちゃんと書き手がいたり、一般人の口コミをランキング形式で集めたかのように装っているけれど、注意深く読めばこれが業者の作ったものであることはピンと来る。信頼ある口コミ、すなわち血の通った、生きた人間の書いた言葉がどこにも見つからない。でも、検索順位は高いんです。SEO最適化されているから」

田中「うんうん」

柴「これはコンプレックス・ワードだけでなく、芸能人の名前や政治系のキーワード、ファッションや化粧品などあらゆる検索数の高いワードで起こっていることです。ニュースサイトを装っているものもあるし、ブログのふりをしているものもある。小銭稼ぎのためにウェブ空間にゴミをばら撒く人たちがいる。そういったものが30%くらいだったら、『業者乙』で終わるんですよ。でも実際にトップ100の全てを覆い尽くされると、さすがに絶望しかなくて」

田中「それはそうだねー」

柴「これは音楽でも全く同じ状況です。『宇多田ヒカル』でも誰でもいいんですけれど、アーティスト名でGoogle動画検索をすると、1ページ目で、くだらないオルゴールに乗せて新譜リリース情報をテキストで垂れ流すアカウントがヒットするんです」

田中「はいはい、それで実際の曲が流れないやつね」

柴「そうです。世の中の多くの人は『検索すれば何でもわかる』って言うじゃないですか? でもそんなのは全くの嘘でしかない。検索結果はハックされている。それが2016年から2017年の今に起こっていることなんですよ。これについては、僕はディストピアが目の前に来ている状況だと思うんですけど。タナソウさんどうですか?」

田中「まさにその通りだと思います。しかも、それをクリアする方法、もしくは、それをクリアするために誰が何をすべきか? っていうところがすごく難しいじゃないですか」

柴「そうですね」

田中「これがシステムの根本的な問題で、Googleが何かやらなくてはならないのか? もしくは、倫理の問題で法的に規制しなければならないのか? いやいや、そうじゃなくて、一人ひとりのリテラシーとして努力すべきなのか? いや、でも、そのリテラシーはもはや機能しないじゃない、っていう。じゃあ、誰がどうするの?――まずはそこの選択肢がありますよね」

柴「そうですね」

田中「前者ふたつの選択肢に関しても、果たしてそれが正解なのか。倫理的、法的にこれをクリアしていこうと言っても、ちょっとゾッとするじゃないですか。じゃあ、Googleがやらなくちゃいけないのか? これもちょっとゾッとしますよね。その時点で難しい」

柴「ですよね。これ、かなり袋小路なんですよ。で、僕個人として思うことを言うと、これは宗教の問題なんですね」

田中「宗教? どういうこと?」

柴「僕はずっとGoogleというものを信じていたんですよ。彼らの『Do no evil』という信条や、ユーザー一人ひとりの行動を基に情報の信頼性を可視化させるページランクというシステムを信じていた。もちろんスパム業者とのイタチごっこはあるけれど、彼らがアルゴリズムを改良すれば、常にそれはアップデート出来ると信じていた。つまり、僕はGoogle教の信者なんですよ」

田中「なるほど」

柴「でも、GoogleがAlphabetと社名を変えたあたりから、どうやら僕は偽の神を信じていたんじゃないか? と思うようになっているんです。これは宗教の問題なんで、洗脳が解けたみたいなね(笑)」

田中「なるほど。でも、柴くんには何かしらの信仰はあるんですね?」

柴「僕は持っています。敬虔な仏教徒ですし、宗教的な人間だと自覚しています。その上で、Googleというのを、とても仏教的なものだと思っているんです」

田中「そうだよね。60年代のカウンター・カルチャー的な思想から脈々と受け継がれているものがあるし」

柴「そうですね。それだけでなく『Google』というのは『googol』のスペルミスから名付けられている。『googol』というのは10の100乗を示す言葉で、つまり『那由多』『阿僧祇』『無量大数』みたいな仏教的な言葉と同じカテゴリーにある言葉なんですよ。だから、すごく親近感を抱いています。けれど『Alphabet』というのは『アルファにベットする』という意味なので、いわば一神教的な価値観なんですね。そして行動規範も『Do the right thing』に改められた。これも似たようで全く違う言葉である。僕は基本的にキリスト教的な人間ではないので、そういうところが気になってしまう」

田中「なるほど。俺にはまったく信仰がないんです。唯物主義者で、反プラトニズムだから。自分の葬式の時にはスクリッティ・ポリッティの“フェイスレス”っていう、最後まで信仰の対象を持たなかったって曲をかけてくれ、って言っているくらいで。まあ、それも信仰なんじゃないか、って話もあるんだけど(笑)」


Scritti Politti / Faithless

田中「ただ、組織にしろ、システムにしろ、人間にしろ、すべてのものにはインヒアレント・ヴァイス――あらかじめ内在している欠陥があると思ってるんですね。少なくとも必ず欠陥が顕在化する。だから、何かを信奉することがないんです。で、Spotifyの上陸に『わーい』と興奮しながらも、信仰という心の動きがないものだから、その内在する欠陥について最初に考えちゃう。でも、常にエキサイトしているんですけどね」

柴「そうですよね。ああ、結局、宗教の話になっちゃった(笑)。でも、いいんです。これは単なる信仰心の話ではないので。つまり僕が言っていることって、Googleが掲げた『世界中の全ての事象を情報化する』という使命を『色即是空』として捉えているということなんですよね。だから僕は今、Googleの現状に対して、とても強い失望を抱いている。同時にその根本原理を信じたい気持ちがあるので、とても強い悲しみを抱いている。そういう気持ちを持ちながらGoogleを毎日使っているという感じですね。まさかこんな話になるとは思ってなかったな(笑)」

田中「いやいやいや。でも、神や封建者に対する何かしらの希求はあるってことだよね」

柴「うーん……。そこに関しては保留ですね。超越的な存在としての神という視点は持ってない。仏教なので。ネット上も含めたあらゆる場所に八百万の神のように偏在する見えない力は信じています。それが時に祟るということも」

田中「今、宗教の問題はあらゆるフィールドで前景化していると思っているんですよ。それを誰も宗教と呼んでいないだけで。非常に宗教的なコネクションとか、宗教的なアタッチメントが目に付くようになった。ある種、ネットでエンパワーメントされることも、非常に宗教的な状況だなと思っていて」

柴「そうですね。日本では特に、自分のことを無宗教と言う人ほど、とても宗教的なモチーフを信じていると思っています」

田中「そう。それも俺の問題意識のひとつでもあるんですよ。まあ、それもここではどうでもいい話なんですけど(笑)」

柴「いやー、こんなところに行くとは思ってなかったな。ヤバい(笑)」

田中「じゃあ、シンプルなところに戻しましょう」

柴「はい」

田中「これも柴くんが現在の状況に対してどういった意識で向き合っているかに関係する質問なんですけど、柴くんはただ曖昧に書き手と名乗るのではなく、音楽ジャーナリストと名乗っていますよね? 批評家や音楽評論家ではなく、音楽ジャーナリスト。そう名乗った理由を教えてもらっていいですか?」

柴「きっかけは、佐野元春さんのラジオにゲストに呼んでもらったことで」

田中「佐野さん? どういうこと?」


<③につづく>


Photography : 尾田和実 / Kazumi Oda



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