いとうせいこうインタビュー② 「スクラッチできるDJは5人しかいなかった」

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編集者。雑誌屋。SILLYコントリビューティング・エディター。

日本語ラップのオリジネーター、いとうせいこうの濃厚なインタビュー。「フリースタイルダンジョン」の成功秘話に続いて語られたのは、日本語ラップ誕生の経緯。日本のヒップホップが生まれた時代の貴重なエピソードをお届けする。


■vol.1はこちら

向こうのラッパーやDJが聴いてた曲と
同じものをFENで聴いてた


ー先ほど日本語でヒップホップをやることさえおぼつかなかったというお話がありましたけど、せいこうさんが80年代にラップをやり始めた、ヒップホップに興味を持ったきっかけは、そもそもなんだったんですか?


僕はラジオですね。当時の米軍放送、FENで知ったんですよ。当時のFENは割とヒットチャートに忠実で、新しい音楽がすぐ反映されてたからよく聴いてたんです。当時はまだディスコの時代で。ソウルのヒットの後に、ディスコ時代が来て、ビージーズとか、ナイスなディスコサウンドをやる人たちがいて、その合間に、シュガーヒル・ギャングとか、ホント初期のニューヨークの連中のやってる音楽が聴こえてきたんです。

紹介してるDJ自体もあんまりよく分かってないって感じでしたね。ラップともヒップホップとも言ってなかった気がする。そのリズムと、その上に乗ってる喋りの部分を聴いて、「うわ、これスゴイ面白い! なんだ、これ!?」と思ったのが、最初の出会い。周りに教えてくれる人もいなかったから。

大学で音楽好きが集まるサークルみたいなのに入ってたから、先輩とかに話すと「たしかに最近、俺も聴いた」って話になって。なんとなくこんな感じだろうか、ってそのマネをし始めたんですよね。


ー大学生時代からすでに始められてたんですね!


80年代のはじめですね。その後、『ワイルド・スタイル』という映画を伴って日本に入ってきて、そこで「どうやってスクラッチしてるのか」「どうやってターンテーブル繋いでるのか」とかが、なんとなく分かったという。


ー映像で観られて初めて分かったんですね。


そう、「こうやってんだ!」って。と同時に、僕は大学の後半は、原宿周辺のもういろいろんな音楽をやってる人たちと知り合ったりしてたんで。藤原ヒロシとか、ずっと一緒にやってるDJのDub Master Xとか…。

当時、スクラッチができるDJなんて日本に5人くらいしかいなかったんですよね。そういう人たちとほとんど繋がって。で、彼らはまさか日本語でラップする人間が出てくると思ってなかったわけで。僕が短いフレーズでも、ちょっと乗せて「こんな感じだよね?」とかやると、「おお、良く分かってるね!」ってなって。自然発生的にライブをやっちゃってたって感じですね。当時はクラブなんてほとんどなかったんですけど、「ピテカントロプス・エレクトス」というところが原宿にあって。 


ー1982年にオープンした日本で最初のクラブと言われてる店ですね。


笑いもやるけど、落語をスクラッチするとか音楽的なネタもいっぱいあったから、そこに芸人として出入りするようになって。そうすると、DJは自分の音に乗せてみたいから「あれやってよ!」ってなるんですよ。

やってみたら、客がちゃんと踊ってるって感じになって。何もかもが実験だった。音源は耳にはしてるわけじゃないですか。だから「どうやれば針飛ばないんだ?」とか「あれってどうやってるんだ?」とか、みんなで考えたりしてましたね。

それと、ネタ探し。血眼になって探してた。それはそれで面白かった。僕の場合そのときに生きたのが、中学高校時代にFENを聴いてたってことだったんですよ。FENを聴いてたからヒットチャートの曲を知ってた。だから、当時20代の向こうのラッパーやDJが青春時代に聴いてた曲と、ほとんど同じものを聴いてたんですよ。

ラッパーが必要になって

嘘でもいいからやってくれって


ーなるほど、同じものを聴いて育ってたわけですね。


だいたい当時の元ネタはヒットしてたものばかりで、そんなにディープなものなんてないんだから。だから、彼らがどういうネタを探してくるかが分かった。彼らのお兄さん世代のソウルとか、お父さん世代のジャズとかは、こっちも得意。「あ、これ、JB、JB」とかってなる。それが大きかったですよね。「それなら、ウチにあるわ!」ってなったりして。

そういう点では、今の若い子とあんまり変わらないのかもしれないですね。「このネタなんなんだ?」って探して、見つけると2枚買いして、擦りたくなる、みたいな。僕は擦れないんだけど。

それでDJができるようになると、やっぱりそれに乗せる言葉が欲しくなりますよね。なので、ラッパーが必要になってきて。嘘でもいいからやってくれ、とかって言われて。そんな勢いでやってましたね。


ースゴイ時代ですね。どんな感じだったのか、見てみたいです。


当時のビデオがあるんですよ。今年、僕のあるアルバムの30周年だったので、その記念のフェスをやったんですけど、そのステージの合間合間をつなぐのに、絶対映像が必要なはずだってなって、自分で見るのも恥ずかしくて嫌だった映像を、全部放送作家に任せて見てもらって、使ったんですよ。僕は一部しか見ませんでしたけど。

そのなかでは、持ち曲一曲くらいしかないのに、40分くらい平気でやったりしてましたね。藤原ヒロシと高木完とDub Master Xと。屋敷豪太も後ろで叩いてた。のちにシンプリーレッドになって、世界のトップチャートに入っていったドラマーの彼もいた。

やっぱり、ヒップホップは当時、リズムが抜群に面白かったですからね。客もちゃんと踊ってるんですよ。ネタなんかどうでもよかったのかもしれないけど、リズムが聴こえてきたら、みんなで囃し立てて。当時はコール&レスポンスもないからその場で作って。その感じがすごくクリエイティブだったのは覚えてますね。毎回毎回、新しい決まりができていく。

どうすれば音頭にならないかが

我々ラッパーの課題だった


ーそのときに音楽を演奏する方やトラックを作る方にいかずに、ラップする方、言葉を扱う方にいったのはなぜなんでしょうか?


それはもう、楽器とか全然できないから。打ち込みも何も知らないし。

むしろ言葉だったら、小説とかもよく読んでたし、昔日本にどんな語り芸があったかとかも、興味あったし調べてもいた。だから、僕はそっちに特化していったという部分はありますね。

なので、音楽的に譜割を考えるというよりは、言葉に従って譜割を考えてた。この言いたいことをどう乗せたらいいのか?と。どう乗せると音頭じゃないように乗るのか、って。休符があって跳ねてくるからどうしても音頭っぽくなっちゃうんですよ。当初のヒップホップのリズムも跳ねてたから。ビートが揺れてたというか、まぁ、僕はそれでヒップホップが好きになったんだけど。日本語の跳ねたまんまのリズム通りでいっちゃうと、完全に音頭になっちゃうんですよね。であれば、どこを削って、どの休符を埋めるのかという問題が、我々ラッパーの課題で。でも、なんかやったらできちゃったって感じなんですよね。ここはやばい、合いの手入れたら全然違うからなんか入れてよ、とかやってたら、それなりにできちゃったんですよ。

そこからはもう、いろんな実験ですよね。頭で韻を踏んでみたり、真ん中で踏んでみたり。あるいは全然踏まなかったり。そういうことをいろいろ繰り返してきて。だんだんと仲間も増えてきて。


ーそうやって日本語ラップは生まれたんですね。


同時に、僕はジャマイカのレゲエ、ラガマフィン的なものも最初からやってましたね。ジャマイカがヒップホップの大きなルーツだから。

最初に、ニューヨークで同じトラックを繰り返してグルーヴを作るというのをやったのは、クール・ハークという人だと言われているんだけど、そのクール・ハークもジャマイカ移民だしね。

ラガマフィンとラップはリズムに言葉を乗せるって点で、スゴく似てる。今も、Dub Master Xや屋敷豪太とと組んで、DUBFORCE(ダブフォース)ってバンドをやってるんだけど、それはもう裏打ちというか、レゲエの上にどう言葉を乗せるか、メッセージするかということを考えてますね。僕のなかにはずっと、ヒップホップの横に裏打ちのブルービートがあるんです。


<③に続く>

「AbemaTV presents フリースタイルダンジョン東西!口迫歌合戦」

放送日時:12月31日(土)20:00 ~ 23:45

「フリースタイルダンジョン」のスペシャルプログラムが12月31日にAbemaTVにて放送される。日本全国から選ばれし凄腕ラッパーたちが集結!ここにお馴染みの最強モンスターたち6人も加わり、東軍と西軍の2チームに分かれバトル。『フリースタイルダンジョン』史上最高額の賞金300万円は手にするのは? 「フリースタイルダンジョン」初登場のSIMON JAPはGADOROと、呂布カルマは漢 a.k.a. GAMIと対戦。審査員を務めるKEN THE 390とERONEの対戦など、見逃せないバトルが連続。

Photographer : 下城英悟 / Eigo Shimojo(いとうせいこう氏)、Yuki Hayashi(会場)

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