10周年を迎えた〈エフィレボル〉の創立者に訊く、とんでもなく豪華なイベントと、ブランドの過去と未来について

長畑宏明

インディペンデントファッションマガジン『STUDY』編集人

とりあえず、このフライヤーを見てください。

90年代のオルタナシーンを代表するチボ・マットの羽鳥美保や、元OOIOOのドラマーで現在は鳥取で音楽活動を行うOLAibi(オライビ)、さらにナチュラル・カラミティとして98年には全米デビューを果たし、ジャック・ジョンソンをも魅了した森俊二の3人が、この日限りのユニットを組んで即興で演奏するというのです。これは何かというと、来る10月28日金曜日に開催される〈エフィレボル(.efiLevol)〉の10周年を祝うイベントなのですが、とてもいちファッションブランドのパーティーとは思えないくらい豪華で、3人の起こす化学反応が目撃できるという意味では、きちんと驚きもある。


さらに、前座では、〈エフィレボル〉を運営する「カタチ」からリリースされている別ブランド〈ナーディーズ(THE NERDYS)〉でイメージモデルを務める3人がバンドを組み初演奏を披露するというのも、子供が無邪気に「あ〜こんなことが実現したら面白いなあ」と思っていることをそのまま実現させたような爽快さがあって、最高です。DJは、山崎真央(CAY/gm projects)、鶴谷聡平(NEWPORT)、青野賢一(BEAMS RECORDS)という鉄壁の布陣。これは、いまだに「音楽とファッションを繋げる」というフレーズだけが独り歩きして身のあるアウトプットがほとんど見られない業界の常識を変えてしまうかも。しかも、このタイミングで阿久津さんは〈エフィレボル〉のデザイナー職から身を引くという。


ブランド設立10周年という節目に、いったい阿久津さんは何を思っているのか。


ーチボ・マット+OOIOO+ナチュラル・カラミティって、ラインナップがすごすぎますね。元々、皆さんと阿久津さんには個人的な繋がりがあったんですか?

「まず、ミホちゃんは、toeがニューヨークでライブをやっている時に、普段から仲良くさせてもらっている佐久間(裕美子:ニューヨーク在住のライター)さんから紹介してもらいました。あいちゃんは、淡路島でセレクトショップをやっているおれの友達と、ニューヨークの陶芸家しのちゃん(Shino Takeda)から繋がったんだよね。森(俊二)さんとは、このイベントの話が持ち上がった時にちょうどミホちゃんとあいちゃんから森さんを推薦されたから、『あ、繋がってる!』と」

ーその前座として、ついに“ナーディーズバンド”がヴェールを脱ぎます。デザイナーのNERKLEさんは、〈ナーディーズ〉のモデルたちを実際のバンドとしてデビューさせる構想はいつから練っていたんですか?

「最初からじゃないかな。〈ナーディーズ〉のカタログはずっとレコーディングスタジオで撮っていたんだけど、あれはモデルたちが理由も知らされずに徴収されて、“お前たちはバンドとしてデビューするから”と無理やり服を着せられたっていう設定だった。それで、彼らが座っている絵が4シーズン続いて、その次のシーズンでみんなが立ち上がった時に、“あれ? これバンドとしてデビューするのかな?”と想像させる流れを作りたかったと」

※〈THE NERDYS〉2014AWのカタログより抜粋


ー〈ナーディーズ〉の展示会ではコンピCDを配っていますよね。あの選曲のセンスが素晴らしくて、ブランドの世界観を瞬時に伝えるツールになっていると思います。

「あれは、今回のイベントにもDJで出てくれる鶴谷さんにお願いしているんだけど、最初はヴォーカルがいかにもダメそうなルックスのナードなバンドをばっかり入れていた。わざわざグーグルで顔まで調べて(笑)。でも、その縛りでずっとやっていくと、音楽の幅が狭くなるし、個人的にはジャズとかも気になってはいたから、だんだんと『音楽が好き』ということだけでいいんじゃないかという話になったんですよね。だから、今は意識的に幅を広げている」

ー「NEWPORT」の鶴谷さんとは音楽的な共通項が多いんですか?

「いや、まあ、僕から『趣味が一緒です』とはとても言えないくらい鶴谷さんは詳しい人だからね。でも、たとえばおれがタイコでキング・クルールと一緒に写真撮った時に、鶴谷さんから『あれ、何で撮ってるの!?』って突っ込まれたりして、『ああ、何となく近いのかな』と思うことはありました」

ー鶴谷さんとの出合いについて教えてください。

「鶴谷さんは“スパイラル レコーズ”の立ち上げメンバーなんですが、おれも最先端の音とアーバンな雰囲気に憧れてお店に通っていたんです。それで、鶴谷さんが“NEWPORT”に移られて、(今回のイベントでDJを務めるユニット「真っ青」のメンバーである)真央さんや青野さんがそこの常連だったっていう。でもおれは人見知りだから、輪の中に入るのにけっこう時間がかかって、しばらく『ああ、どうもこんにちは』くらいの感じだった(笑)。このレベルの人たちに自分から『この音、良いですよね』なんて言いづらいし。その界隈の方々と関係がぐっと詰まったのは、〈ナーディーズ〉立ち上げの時に『バンドのための洋服を作りたいんですよね』と鶴谷さんに相談したことがきっかけですね」

ーそもそも阿久津さんってどこから音楽に入ったんですか?

「パンクです。地元の幼馴染のお兄ちゃんがパンク好きで、僕もその影響でレコードを掘るようになりました。そのお兄ちゃんが東京に住んでいて、おれも上京して下北沢の洋服屋で働きだした時、彼がパンクのイベントに誘ってくれたんです。たしか下北沢の「ベースメントバー」だったかな。で、通っているうちにおれもDJをやるようになって。ロンナイ(ロンドンナイト)とか、一時期はどこもパンパンに人が入ってすごく盛り上がっていた。モヒカンで後ろの毛だけ長い女の子とか、ファッションも様々で」

ー阿久津さんはどんな格好をしていたんですか?

「マーチンに66履いて、サスペンダーつけてフレッドペリー着て、みたいな感じ。“666”っていうパンクのお店の店長が同じ歳だったし、スタイル的に影響も受けました。コブラ(87年にデビューした日本のパンクバンド)のヨースコー(YOSU-KO:ヴォーカル)とかに憧れていたんだよね。でも、だんだんシーン自体が衰えてきて、中の人たちも新しい音楽を受け入れなくなっていた。おれは新しい音楽もどんどん知りたいと思っていたんだけど」

ー閉鎖的なコミュニティになってしまったと。

「そうだね。その時、ちょうど自分が働いていたお店のお客さんが『おれが主催するイベントに○○とか○○とか来るからお前も来なよ』って誘ってきたんだけど、超有名人の名前ばっかり挙げてくるから、『そんなわけないだろう』と。でもとりあえず行ってみたら、本当にみんないてびっくりしました(笑)」

ーそのイベントもパンクだったんですか?

「いや、それがハウスだったんです。そこが入り口になって、今度は青山のループとか、ファイとか、エアーとかでハウスのDJをやりだした。オーセンティックなやつじゃなくて、テックハウス。その頃のおれは本当にチャラくてね(笑)。当時はロン毛だったし。DJもみんな友達の輪が広かったから、女の子がわんさか来ていた」

ー当時の本業はまだショップスタッフですか?

「そうだね。おれはヤンキーだったし、『東京ドリームを叶える』って大口叩いて上京したのに、ただのショップスタッフを続けていても何にもならねえなと思っていた」

ーこの業界に深くコミットするきっかけはどこにあったんですか?

「とりあえず夜の街を歩こうと思ってクラブに通っていたんです。時には、有名な人が参加する忘年会に参加することもあって。ある時、出席者はみんな雑誌やテレビで見たことがある人だったんだけど、その中で唯一素人っぽい人がいて、『この会、何かすごいですよね』って話しかけたら、その人がヒロミックスさんだった、みたいなことも(笑)。ただ、『自分が動けば繋がっていけるんだ』っていうポジティブな気持ちになりましたね」

ー今の阿久津さんとクラブのイメージがどうしても結びつかないんですが、今でも四つ打ちは聴きますか?

「今はそんな体力がないよ(笑)。パンクも長くは聴けないし。クラブ自体、30歳で行かなくなっちゃった。なぜだか恥ずかしくなっちゃって(笑)。あと、ハウスって本当におれが好きな音楽なのかなって疑問がわいてきたんです。それでロックに戻った。エアジャムも世代だし、自分の音楽はそっちなんだなと思って。ただ、その時にはもうエモーショナルにうわーってやらなきゃいけないもの、っていう感じもしなくなってきた。ちょうどポストロックが出てきた頃ですね。とはいえ、今はオールジャンル聴きたい派なんだけど」

ー当時はジャンルの波みたいなものが明確にあったんですね。

「昔は今より情報が絞られていたから拾いやすかったんだけど、今は広がりすぎてわからない。だから、真っ青のメンバーは『いつ掘っているんだろう?』と思う」


詐欺まがいの出店話が思わぬきっかけを生む


ー話を戻すと、ショップスタッフをやっていた頃から自分のお店やブランドを始めようとは思っていたんですか?

「それがね、ある日、さっき話に出した有名人ばっかり集まるイベント主催者の繋がりで、ある会社の社長から『阿久津さんさあ、仕事できそうだからうちに来ない?』って誘われたんです。それでおれが『店やりたいんです』と言うと、『じゃあ、おれが出してやろう』って。おれも意気揚々と『6000万円くらいかけて、中にバーがあって、お酒飲みながら接客するようなお店を作りましょうよ。おれの顧客さんもいるから年間1億くらい楽勝ですよ』とか言っていたね(笑)」

ーいかにも胡散臭い話じゃないですか。

「前の職場の人にも『騙されるよ』と言われていた(笑)。で、実際に会社に行ってみると、『あのさあ、表参道におれのお店あるから、そっちで切り盛りできるか試させてよ』って言うんです。『そんなの余裕でしょ』って息巻いて行ってみたら、そこが狭いマンションの一室、しかも目の前が駐車場で、車が入っていると何も見えないようなところ。『これ、店じゃないでしょ!』って」

ー見事なストーリーですね(笑)。商材は?

「その人が抱えていたストリートブランドの在庫。ぶっちゃけおれだったら絶対に着ないようなもの(笑)」

ーきれいに騙されてるじゃないですか(笑)

「でも、『こんなの売れないですよ』って言ったら『君、そんなレベルなの? それじゃ、年間1億とか無理でしょ』って返されて、カチンときて、『だったらやりますよ。売上立たなかったら給料もいりません』って、勢いで働き始めちゃったんです。ちなみに、什器は布をかぶせたダンボール(笑)。とりあえず友達を呼んで、『これヤバイでしょ』って買わせようとしたら『いや、別の意味でヤバイでしょ』って言われたりして(笑)。半年間はなかなか売上が立たず給料も休みもありませんでした」

ーそこまでして続けるモチベーションはどこにあったんですか?

「単に意地ですね。おれの後も似たような流れでどんどん人が入ってきたけど、みんなすぐに辞めちゃったし」

ー店に立っていたときはそこの服を着ていたんですか?

「一応ね。ただ、徐々にドメスティックの取り扱いが増えてオシャレな雰囲気になってきたんです。そのきっかけは、店に立ち始めてしばらくして、あるブランドを始めた知り合いから『まだ卸先が一軒しかないから阿久津も一緒に営業してくれ』と頼まれたこと。それでおれが電話しまくったら、何とか15軒くらいは取扱が決まった。そしたら、彼がおれのことを気に入ってくれて、『お前が売れると思ったものは本当に売れそうだから一緒にやろう』って誘われて、はじめてものづくりに関わるようになり、そのブランドを自分の店でも取り扱うようになったんです」

ー結果的には自分のお店をやらせてもらえたような形ですよね。

「でもね、あの部屋は見たらビビるよ」

ー今だったら1周して「アヴァンギャルドな個人店」っていう見方もできるんじゃないですか。

「今はね(笑)。でも、当時は1周できなくてただのアブないお店だよ。もちろんそんな場所にふらっと入ってきてくれる人なんていないから、自分でフライヤーを配って、『一回見るだけでもどうですか?』って無理やり連れてきたりしていましたね」

ーもはやキャッチですね。

「さっき話したみたいに、東京にはずっと憧れていた人と当たり前に話せる環境が目前にあって、おれだってやれないことはないんだ、っていう希望があったから、やっていたんだろうね。そんな調子で365日休まず働いて、1年後に『辞めたい』と伝えたんです」

ー〈エフィレボル〉のメンバーとはいつ出合ったんですか?

「最初にたいちゃん(太田泰介)がおれの後輩の紹介で店に来てくれて、文化出身というから、試しに売れないTシャツのリメイクをお願いしたら、良い感じに仕上げてくれて。そこでおれから『独立しようと思うんだけど、一緒にやらないか?』って誘ったんです。『おれは服作りもデザインもできないけれど、アイデアだけはあるからディレクション頑張るな』って。そしたら、たいちゃんがロンドンに天才がいるから呼び寄せたいと。それが(飛世)拓哉だったんです。その3人で〈エフィレボル〉をスタートさせました」

※写真は上から、阿久津誠治、太田泰介、飛世拓哉。


ー「LOVELIFE.」を逆から読んで「.efiLevol(エフィレボル)」ですが、その名前はどうやって決めたんですか?

「ブランド名を決める際にみんなでキーワードを書いてこようということになって、いつもどおりロータスの地下に集まったんです。その時に“LOVE”だけは全員が挙げていて、すでにレディースでエボルっていうブランドはあったから、『それなら“愛のある生活”はどう?』ということで決まりました」

ー僕がはじめて〈エフィレボル〉のことを知ったのは「ザ・コンテポラリー・フィックス」で、裏地がボーダーになっているジャケットを見て、友達と「すごく良いね」と絶賛していました。

「ああ、“AW”っていうテーマのシーズンだね。でも、実際のシーズンはSSだったんです。それでも秋冬の服だと勘違いする人が多くて、まあ実際はアンディ・ウォーホルの頭文字だったんだけど、人間なんてそんな言葉で左右されるくらいしょぼくて浅はかなんだよって突っ込むのが、逆に人を喜ばせると思っていた。その時、ミンクの毛皮を真っ赤に染めたコートを50万円で売ったんだけど、誰も買うわけがないと思っていたら、“ガーデン”と“ザ・コンテポラリー・フィックス”が取り扱ってくれて、結局“ザ・コンテポラリー・フィックス”で一着売れたんですよね。そのお客さんは『いま彼らはこれを表現したいんだよね! 』って、すごく感動して買ってくれたというのを聞いて、世の中も捨てたもんじゃないなと思いました(笑)」

※“ザ・コンテポラリー・フィックス”で〈エフィレボル〉のポップアップが開催された際に飾られていたファーコート。


ーブランド開始当初はどういう役割分担で進んでいたんですか?

「たいちゃんと拓哉の2人に自分が作りたいものを一回あげてもらって、それをおれが繋ぎ合わせる感じですね。でも、やっぱりそれぞれデザイナーとしての自我があるから、ブランドは倍々ゲームで延びていく中で、だんだん2人の会話がなくなっていった。だから、2人を別々に飯に連れ出して『お前のデザイン好きだぜ』って励ましたりして(笑)。あと、3年目からは、おれも折り紙的なパターンの仕組みがわかってきて、彼らの作ったものにアイデアを足すようになりました」

ー〈エフィレボル〉に最初に目をつけたお店はどこだったんですか?

「やっぱり澤村(泰介:セレクトショップ“ガーデン”ディレクター)くんかな。当時、彼の上司だった今江さんっていう人が『上野商会の新しい業態にハマりそうなんだよね』って紹介してくれたんです。あとはエイシクル(シップスが手がけていたエッジーなブランドを取り揃えるセレクトショップ。2012年に閉店)ですね。長畑くんの世代が一番通っていたお店じゃない?」

ー僕が学生の頃(2005年〜2010年)は、パンクっぽい雰囲気がベースにあるアヴァンギャルドに憧れている人が多かったんですよね。僕も〈アンリアレイジ〉、〈ブラックミーンズ〉、〈ベルンハルトウィルヘルム〉あたりのブランドはここで見ていました。

「〈エフィレボル〉も学生のお客さんが多かったから、そういうことなんだろうね」

ー〈エフィレボル〉にデザイン上の具体的なリファレンスはあったんですか?

「ベーシックなアイテムを独自の視点で再解釈する、という意味ではマルジェラかな。おれたちの世代だとそこは逃れられないから。あとは、日常の不可思議みたいなもの、たとえばマーク・ボースウィックの写真の世界観は好きでした。当時はドメスティックのブランドがどんどん出てきて、天下一武道会みたいな様相だったね」

※〈エフィレボル〉2010SSの「AW」より


エフィレボルはこれからどこへ向かうのか?


ー10周年を節目に〈エフィレボル〉のデザイン部門を下の世代に引き渡そうと思った理由を教えてください。

「元々、スタート時から10年で引退すると公言していたのもあるし、歳を取るごとに自分が着たいものとブランドとして求められることの乖離が気になっていったんです。つまり、このブランドはあくまでリアルクローズなのに、自分が着ないものをデザインすることに疑問を覚えた。それで、もう10年だし、潔くここで辞めてしまうのは良いかもと。大手のメゾンだって時代ごとにデザイナーを交代させてきたわけだし、別におかしいことじゃない。それと、若い世代がつくる〈エフィレボル〉を見てみたかったんです」

ー〈エフィレボル〉も前期と後期では雰囲気がだいぶ異なりますよね。デザインコンシャスなところが、よりノーマルな質感に近づいていったというか。

「それが良くないと思ったんですよ。昔は本当に自分が着たいものだったのに、最近は自分のブランドの洋服を着ていても、『おれ、合ってるこれ?』って思うようになっていたから」

ー今は田島(一寛:デザイナー就任前はアシスタントを5年務めた。現在26歳)君と拓哉さんの2人体制ですよね。個人的に田島君がこのブランドに入ったころから知っていたので、感慨深いです。

「田島には『お前、デザインやりたい?』とはちょくちょく振っていて、試しに企画を任せてみたら、かなりクセが強いというか、自分のまわりの世界が1番格好良いっていうのがベースだったから、『やっぱりやめるわ』ってパスしたことがあったんですよね。でも、〈エフィレボル〉はいくつかのアイデアがぶつかって変な化学反応が起きるのが面白いから、拓哉が1人でやるというのは違うと思った」

ー別の人を入れるというアイデアもあったんですか?

「ぶっとんだ外国人でも連れてこようか、とかね(笑)。でもしばらく悩んで、もう一回田島に『お前、〈エフィレボル〉好きだよな。頑張れる?』って確認したら『やります!』って言うんで、おれも思い直してじゃあ任せてみるかと」

ー阿久津さんは田島くんのどこを買ったんですか?

「彼が面接に来た時、チェックシャツとジーパンできたのがダサくて良かった。“本気でダサい”でも、“狙ってダサい”でもなく、中途半端にダサかったんです。あと、すごく古い日本の歌謡曲を聴いてるっていうのも面白いなと。今だって、はっぴいえんどとかを聴いている若い人がやっているバンドがキテる感じがするし。ヤイエルとか、サチモスは違うけどね。それで、『お前たちの世代にはステージがある』っていうのを彼には言い続けていて。『お前らが何かを変えそうだ』って」

ー阿久津さんはデザイン面でもう一切関わっていないんですか?

「全く。おじいさんの小言的な助言くらいですね。でも、今回みたいな面白いイベントはやりたいと思っている」

ーショーをやることには興味がありますか?

「ただモデルが歩いて洋服を一番よく見せるっていう意味でのショーには興味がなくて、せっかくやるなら見る人たちを驚かせるような+αを演出したい。『何なんだよこいつら』って思われることがやりたいかな。別にお金をかける必要もないし、東コレのシステムに乗っかる必要もないと思います。

−−下の世代に活躍できる場所を提供する、という意識は強く持っていますか?

それはない。なぜなら、おれは君たちが憧れるような人間にはなれなかったから。『ヒロシさんだ!』みたいに、『阿久津さんだ!』なんて言われることはない(笑)。だから、おれは『ものを作っててさ』っていうスタンスで下の世代と話をしたいんです。あと、お店に来る若い子たちが『進路に悩んでいる』みたいな相談を受けたら40歳なりのアドバイスをするっていうくらいですね」

ー阿久津さんの役割は確実に変わったということですね。

「たとえば、スポーツの世界ではメッシとか大谷とか、若い世代からとんでもない怪物が生まれるわけじゃない。それって、単に体力の問題で上が抜けるからじゃない? だって、いつまで経ってもおっさんが一番格好良いなんていう世界だったら、見ている側もつまらないでしょ」

ー〈エフィレボル〉も本当の意味での”新しさ”を模索してほしいと思います。

「そうだね。特に田島はまだまだ覚醒する余地があると思うから、楽しみにしててください」

.efiLevolのフラッグシップショップでもある中目黒のセレクト「BIN」についての阿久津へのインタビューはこちらの記事を。

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