「自分がハッピーに死ぬためのお返し」として、映画のロケーション等で撮影された写真を1枚1万5000円で販売するユニークな展覧会「TOKYO 100」を開催している、写真家・映画監督のラリー・クラーク。木箱に入った写真の山を自由に閲覧して、気に入れば購入できるというシステムだ。
9月23日にスタートした「TOKYO 100」もそろそろ終盤。会場のGallery Targetで、本人やキュレーターのレオ・フィッツパトリック(※1995年公開の映画『KIDS/キッズ』のテリー役)に会うことができた読者もいるのではないだろうか。
SILLYによるインタビュー後編では、最近新たに発表した絵画への思いや、映画の撮影秘話、そして、生涯にわたって撮り続けているキッズの魅力をたっぷりと語ってくれた。「TOKYO 100」は神宮前のGallery Targetにて、10月3日(月)まで開催中。
インタビュー前編はこちら
俺には特別なムービー
いつか日本で見せたい
―「TOKYO 100」と並行して、現在はLAでも展覧会を開催しているそうですね?
Larry Clark(以下、LC) LAでは1963年にプリントしたヴィンテージの作品を展示していて、60分のサイレントフィルムも上映している。1968年にタルサ(※監督が生まれ育ったオクラホマ州の街)で撮影したものだ。俺はよく分からないままボレックスの16mmカメラをレンタルして、3日間にわたって友人たちを撮影したんだ。写真集「Tulsa」にフィルムストリップを何枚か掲載しただけで、44年間、存在も忘れていた。
ある日、当時の彼女が「これ見て」って発見して、びっくりしたよ。死んでしまった友人たちが映像の中で生き返ったわけで、俺にとっては信じられないくらい特別なムービーなんだ。次に日本で個展をやる時に見せてやるよ。写真集に載っていた人たちが動いているのが見られるんだぜ。アメイジングな作品だよ。数年前にパリの現代美術館で行った大規模な回顧展で初めて上映したんだ。
―LAでは絵も展示されていると聞いて驚きました。絵を描くことはアーティストとしての新しい試みなのですか?
LC みんな驚いていたよ。俺は写真家やフィルムメーカーとして活動してきて、過去3作の映画では脚本と監督を務め、今はたくさんの絵を描いている。今回LAで展示している抽象画は脊柱の手術後の療養中に描きはじめた、"Heroin(ヘロイン)"と題した10枚のシリーズだ。そのうちの8枚を展示していて、とても良い出来なんだ。だれにも見せたことがなかったから、展示することができてかなり興奮した。
絵は長年にわたって描いてきたのだが、ほとんど見せたことがなかった。肖像画を描きたくて、『ワサップ!』(2005)の主演俳優、ジョナサン・ヴェレスケスの絵をシリーズで手掛けたこともある。俺は彼のことを14歳の誕生日の1週間後から13〜4年撮り続けていて、絵も描いたんだよ。
―写真、映像と手掛けてきて、絵を描きはじめたきっかけは?
LC 絵を描くと落ち着くことができて、俺にとっては瞑想するための手段なんだ。映画を作っているとすごくストレスが溜まるからね。撮影を終えて家に帰ると、翌日のことを考えて覚醒してしまい、眠れないんだ。それで絵を描きはじめた。絵を描くと没頭することができて、ほかの世界は気にならなくなる。目の前のキャンバスがすべてだからリラックスできるんだ。
絵はたくさん描いているから、どんどん上達しているよ。"Heroin"シリーズのような作品はほかでは見たことがないし、非常に満足している。自分が満足だから、他の人が気に入るかどうかはどうでもいい。俺が気に入っていれば、それでいいんだ。
―いつか日本でも見せてくれますか?
LC そうしよう、もちろんだ。ぜひ見せたいよ。
―現時点での最新監督作「The Smell of Us」(2014)は、来年に日本でも公開されるそうですね。
LC 映画はすべてフランス語だから、字幕をつけて日本公開する予定だ。フランス人の役者が演じて、俺以外は全員フランス人だった。
―なぜ同作では舞台をフランスにしたのですか?
LC 「フランス人じゃなければ、フランスで映画は撮れない」と言われたからだ。1995年に1作目の『KIDS/キッズ』でカンヌへ行き、「ぜひいつか戻ってきて、フランスの若者についての映画を撮りたいね」と言ったんだ。すると有名な監督や役者やプロデューサーが口をそろえて、「それは無理だ、不可能だ」と言うじゃないか。
―どうして?
LC 俺も「どうして?」と言ったよ。そしたら「お前はフランス人じゃないから」と言われた。そこで俺は、これをチャレンジとして受け止めた。俺に挑戦するヤツは気をつけた方がいい。20年後、パリでフランスの若者についての映画を撮ってやった。
―実際に撮ってみて、いかがでしたか?
LC すごく面白くもあり難しくもあって、でもやってやった。映画は素晴らしい出来だし、俺は出演もしているんだ。ふたつの役を演じている。ひとつ目の役は役者が現場に現れなかったから、仕方なく俺が演じた。
―来なかった?
LC 来なかったんだ。ピート・ドハーティ(※ザ・リバティーンズ/ベイビー・シャンブルズのフロントマン。活動の拠点をフランスに移し、初の映画主演作『詩人、愛の告白』ではシャルロット・ゲンズブールとも共演した)のために当て書きした役だったのに。あいつはひどいヘロインジャンキーで、10回打ち合わせをしたのに1度も現れなかったんだ。会ったこともねえんだよ。
—え、あのピート・ドハーティが?
LC 本当の話だよ。マネージャーが電話してきて、「ピートの撮影は順調ですか?」とか聞いてくるんだが、「ピートは来なかった」としか言えなかったよ(笑)。そのうちマネージャーが年がら年中電話してくるようになって、「ピートはどこにいますか?」と聞いてくるんだが、「会ったこともねえから知らねえよ」って感じさ。今日に至るまで、俺は1度もピート・ドハーティに会ったことがないんだ。
とにかく、ピート・ドハーティのせいで撮影日になっても役者がいなかった。ホームレスでヒゲがボーボーに生えた汚らしいロッカーの役だ。偶然その頃、俺はヒゲがボーボーだったから、自分で演じることにした。ピートのために書いたのは、意味不明な詩を読み上げながら歩いているシーンだったが、俺は少しだけ話すロックスターを演じた。映画を観れば分かるよ。
—もうひとつの役は?
LC もうひとつは足フェチの役だった。ベルギー人の有名な監督/俳優が演じるはずだったんだ。金曜日にドタキャンされたのだが、ロケは翌週の月曜日。途方に暮れたよ。何人かの役者に電話して断られた俺は、「クソ食らえ」と床屋でヒゲを剃り、25年ぶりに自分の顔を見た。そして髪を切って黒く染め、後ろになでつけて、現場に現れてみんなをビビらせたんだ(笑)
そして俺は、どうやって演じていいか全く分からない役を演じた。足に夢中になったことはねえからな。足で興奮するなんて、72年(撮影当時)の人生において1度も遭遇したことがない出来事だった。撮影中は「娘が観たらどう思うだろう?」とだけ考えていた。でも俺はやったんだ。そのシーンは映画に入っているよ。編集してみたら、かなり良かったんだ。
さらにディレクターズカットでは、自分自身としても出演している。君と今話している、この俺としてね。キッズに人生哲学を語るシーンだよ。俺は他の監督がやらないようなことをして、自分自身でさえも驚かせる。もう1度観るのが怖いくらいだ(笑)
―映画を観た娘さんはなんて?
LC 実はまだ観ていないんだ。決して観るべきではないよ。特に孫娘はね。でも彼女たちが観る頃、俺は死んでいるからどうでもいいんだ。
―監督の映画は音楽も素晴らしいですよね。まるでスケートビデオを見ているような感覚になります。音楽を選ぶうえで大切にしていることはありますか?
LC 大抵は最初に1曲だけアイディアがあるんだ。『KIDS/キッズ』を制作した時は、ルー・バーロウのバンド(セバドー)の"Spoiled”をエンドロールで使おうと決めていた。他の部分の音楽は編集段階で考えた。いつもは編集室で音楽を考えるんだ。
多くの作品では素晴らしい音楽スーパーバイザーに手伝ってもらった。ハワード・パーというイギリス人で、セックス・ピストルズやザ・クラッシュといったオリジナルのパンクロッカーたちと育った男だ。彼は素晴らしかった。
『アナザー・デイ・イン・パラダイス』(1998)は70年代が舞台だったから、70年代のソウルミュージックを使った。今まで撮った映画の音楽では、あれが1番好きかもしれない。素晴らしいサウンドトラックだよ。CDを探してみるといい。まあ今は何でもネットで見つかるかもな。本当に素晴らしい音楽なんだ。音楽は俺の映画にとって、とても重要な要素だ。
―写真や映画でずっとティーンエイジャーを撮り続けていますね。ティーンエイジャーの魅力はどんなところにありますか?
LC 写真集「Tulsa」(1971)を見てもらえば分かるように、俺の子ども時代はかなり悲惨で不幸だったんだ。そして、同じように幸せな子ども時代に恵まれなかった悲惨なキッズとつるむようになった。俺が15歳だった1958年、みんなでドラッグをやりはじめた。俺たちはドラックカルチャーのパイオニアだったんだ。それはだれも知らない秘密の世界だった。
当時のアメリカの一般的なイメージといえば、白い柵に囲まれた家や、ママのお手製のアップルパイといったものだった。でも自分のまわりを見渡しても、そんな風景は一切見えなかった。児童虐待や近親相姦、アル中やヤク中の父親や母親……そういったものはアメリカには存在しないことになっていた。
俺のまわりではたくさん起こっていたのに、それらをとらえた写真は存在しなかった。なぜなら、写真家たちは手加減しなければならなかったからだ。素晴らしいといわれた写真家たちは、一定のラインを超えることができなかった。それを知った俺は、「なぜすべてを見せられないんだ?」と疑問を抱いたんだ。そして、自分がいた秘密の世界を撮影しはじめた。
—それが写真集「Tulsa」なのですね。
LC 「Tulsa」の最初の半分に載っている写真は、まさか人に見せることになるとは思っていなかったんだ。あまりにも秘密の世界だったから、写真集を出すつもりなどまったくなかった。でもその後、10年分の写真をプリントして本にまとめてみたんだ。
世間には、「南西部のばかなティーンエイジャーが腕に注射針を刺してるよ、なんてマヌケなんだ」とでも言われるかと思っていたよ。ところがあの本は一夜にして有名になったんだ。だれも見たことのないような写真集だったからね。レビューには「青天の霹靂」とか「アメイジング」とか書かれていた。1971年、俺は突然有名になった。
その後はオクラホマに戻り、人生を謳歌してアウトローな生活を送っていた。そして最終的に、ポーカーでもめた相手を銃で撃って逮捕されたんだ。幸い相手は死ななかったが、俺は収監されてしまった。
仮釈放された時点でオクラホマ州には戻してくれず、俺はニューヨークに送られることになった。1978年にニューヨークに到着した俺は、ドラッグやアルコールをやめて、恋に落ち、結婚して、ふたりの子どもをもうけた。人生の夢だったフィルムメーカーになれるほどクリーンになったんだ。
—そして『KIDS/キッズ』が誕生した、と。
LC ああ、1994年に『KIDS』を撮り、1995年に公開された。その時点で51〜2歳になっていた。人生の後半になって映画を撮りはじめたのだが、それは若い頃の俺があまりにもファックトアップしていたからだ。ずっと描きたかったから絵も描きはじめたし、やりたいことは何でもやってみた。
そして俺は今もこうして生きている。一連の手術を受けて生き残ったから、90歳までいけるかもしれないな。母も父も82歳まで生きたし、こういった手術を乗り越えると、より長生きするものらしい。まあ、明日死ぬかもしれねえけどな。だとしても幸せな男として死ねるよ。俺はおじいちゃんなんだ。幸せだよ。
―今日はどうもありがとうございました。いつか東京のキッズを撮影してくれませんか?
LC もちろん。ぜひ撮りたいよ。過去に来日したときにも少し撮ったことがあるんだ。もしかしたら今回の展覧会の木箱の中にも何枚か入っているかもよ。じゃあ、ありがとな。朝から何も食ってねえから腹が減ってきた。そろそろ失礼するよ。
photography : 照沼 健太 / Kenta Terunuma(AMP)
coordinator : Yasuda Pierre(BENJAMINTYO)
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