写真家・映画監督のラリー・クラークが東京で写真展を開催するらしい。しかも、1枚1万5000円で買えるんだって…夏の終わり、そんなうわさが僕らの耳に入ってきた。
1995年に公開された監督作『KIDS/キッズ』は当時のティーンエイジャーだけでなく、その後に誕生したすべてのキッズにとって、きっと特別な作品だ。初めて観たときの衝撃や、夜中に親の目を盗んでこっそり観るスリルを覚えている人も少なくないだろう。まるでドキュメンタリーのようで、それまでに描かれてきた“大人が描いたキッズの世界”とはまったく違ったのだ。
今回の展覧会「TOKYO 100」では、『KIDS/キッズ』をはじめとする映画のロケーションで撮影されたものを含む、彼の自宅に保管されていた膨大な量のカラープリントを展示。来場者は木箱の中から好きな写真を選んで、1枚1万5000円で買うことができる。
この企画について、「自分がハッピーに死ぬためのお返し」と語る御年73歳のラリー・クラーク。オープニングの数日前、会場のGallery TargetでSILLYのインタビューに応じてくれた。「TOKYO 100」は9月30日(金)まで〔好評により10月3日(月)まで延長〕ギャラリーターゲットで開催中。
俺が死ぬ時、キッズが土産を手にするチャンスさ
―今日は貴重なお時間ありがとうございます。
Larry Clark(以下LC) 大歓迎だよ。来てくれてありがとう。
―久しぶりの日本はいかがですか?
LC 今回は……いつ来たんだっけな…ああ、おとといの夜だ。昨日は少し時差ぼけだったのだが、今は最高の気分だ。日本には10回か12回ほど来たことがある。初期の頃から写真展をやっていたし、映画でも来日したからね。東京は大好きなんだ。俺の大好きな都市はニューヨーク、パリ、そして東京。この3つの街なら、どこでも幸せに暮らせると思う。俺に言わせれば世界で最高の3都市だ。
―今回はユニークな展覧会「TOKYO 100」が行われるということで、東京のキッズも大喜びしています。
LC 長年にわたってキッズを撮影してきたから、写真がいっぱいあるんだ。いつもうちの通りの角にあった1時間プリントの店で、36枚撮りのフィルムを現像していた。昔は1時間プリントの店がたくさんあったんだが、ああいう店はすべてなくなっちまった…みんながデジタルで撮影するようになったからな。
今回持ってきたのは、すべてオリジナルのヴィンテージプリントだ。当時の俺はフィルムを現像すると、100枚くらいの中から1枚選んで大きく引き伸ばし、ギャラリーに1万ドルとか1万5000ドルで売っていたんだ。
ここにあるのは80年代前半から撮影したもので、『KIDS/キッズ』(1995)の4、5年くらい前から撮影していたスケーターたちの写真もある。俺は『KIDS/キッズ』や『ケン・パーク』(2002)、『BULLY ブリー』(2001)のアイディアを得るために、スケーターキッズを撮りながら準備していたんだ。だから、どれもスペシャルな写真だよ。
―そのような特別な写真を1枚1万5000円で売ろうと決めた理由は?
LC 俺はいわゆる“捨てられない男”なんだよ。箱を開ければ古い日記やら、紙切れやら、1967年のクリーニング屋のレシートやら、いろいろ出てくる始末だ。この前は古い箱をあさっていたら、ドッグタグ(※米軍の兵士が身に着ける認識票)が見つかった。俺は1964年に徴兵されたんだ。ベトナム戦争の前は誰もが徴兵されたものさ。そんな具合で、何でも全部取ってある。だから、こういった写真も何万枚も持っていた。俺のスタジオはぐちゃぐちゃで、写真は文字通り床に置いてあったんだ。
―スタジオはニューヨークに?
LC ああ、ニューヨークだ。俺は38年間、同じロフトで暮らしている。
―それまで1万ドル以上で作品を売ってきたアーティストがこのような試みをするのは、前代未聞ですよね。
LC 実は数年前に脊柱の手術をしたのだが、かなりシリアスな状態で、俺は死を意識したんだ。映画を撮影していたパリからニューヨークに飛んで帰って、3日後に緊急手術をするという状況だった。俺はその3日間に、子どもたちと元妻とレオ(・フィッツパトリック/『KIDS/キッズ』のテリー役で今回の展覧会のキュレーター)を呼び寄せた。「もし本当に死んじまったらどうなるんだ?」と思ったんだよ。「スタジオにあるすべてのものはどうなるんだ?」とね。信じられないほどのカオス状態で、俺以外は誰も理解できっこないからさ(笑)。
LC そこで彼らに、「ここにあるものを全部処分したい」と伝えたんだ。俺が死んだら子どもたちも途方に暮れるだろうし、それだったらプリントセールを開いて、100ドルで売ったらいいんじゃないかと考えた。俺が死んだ時に、それまで支えてくれたキッズがおみやげを手に入れるチャンスになればと思ってね。
まずスケートキッズに知らせて広めてもらった
―レオ・フィッツパトリックがキュレーターを務めることになった経緯は?
LC さっきも話したように、ギャラリーでは写真を1点1万ドル〜1万5000ドルで販売していたんだ。でも、キッズにはそんな大金はなかった。そこで26年間つき合いのあるニューヨークのギャラリーに、「プリントセールをやって、1枚100ドルで売ったらどうだろう?」と話してみたんだ。すると彼らは笑って「ウソだろ?」と。「それはやっちゃダメだ」と言われたよ。ビジネスのために良くないとね。いつもは1万5000ドルで売っているのに、4x6(101.6mm x 152.4mm)のオリジナルプリントを100ドルで売るなんてクレイジーだと、この企画には乗ってくれなかった。
そこでレオに相談したんだ。俺たちは彼が14歳の頃からの友だちなんだよ。手術後に入院していた時、俺の娘が…ちなみに娘は今30歳で、子どもを生んだんだ。俺はおじいちゃんになったんだよ。とてもかわいい女の子が生まれた。
―おめでとうございます。
LC ありがとう。グランパになれて、俺はすごく幸せなんだ。とにかく2週間入院している間に、娘とレオとハウスキーパーが俺のロフトを掃除してくれた。レオは床にあった何万枚もの写真を集めて、ぜんぶ木箱に入れたんだ。俺はズボラでめちゃくちゃなんだが、レオは潔癖性でね。ヤツのクローゼットときたら、靴がきれいに並べられていて、すべてが整理整頓されている。俺とは真逆なんだ。
―完璧な組み合わせですね(笑)。
LC ああ、正反対の者同士がひかれ合うものだからな(笑)。退院して帰宅したら、すっかり掃除されていて、シーツも交換されて、きれいな部屋になっていた。レオは床にあった物を拾い集めて、整理整頓してくれたんだ。その際、彼が15フィート(約4.5メートル)もある天井まで積み重ねてあった箱を開けたら、さらに多くの写真が出てきたそうだ。一体全部で何枚あったのかは分からないけど、5万枚とかそれくらいだ。
それで俺は「レオ、1枚100ドルで売ろうぜ」と言ったんだ。レオはニューヨークで小さなギャラリーを持っているからね。コレクターがやって来て買い占めるようなことは避けたかったから、「レオ、宣伝はしないでおこう」と話して、まずはスケートキッズに知らせて、口コミで広めてもらうことにした。うわさはすぐに広まって、キッズがたくさんやって来たよ。
一箱に数千枚は入っていたのだが、スケートキッズにとって100ドルは大金だから、彼らは何時間もかけて写真を選んでいた。もしかしたら自分が写っている写真を見つけた人もいたかもしれないね。長年にわたって、ニューヨークやカリフォルニアのスケートキッズをたくさん撮ってきたから。俺はこの展覧会で、キッズがおみやげを買うことができて喜んでくれたような気がした。
1回目の展覧会も今回と同様、会期は7日間だったんだ。5日ほど経つと、コレクターがうわさを聞きつけてやって来た。「レオ、コレクターだろうが誰だろうが、1人10枚までしか売らないでくれ」と伝えたよ。おかげでニューヨークのキッズがおみやげを手に入れることができた。たくさんの写真が売れたよ。
―大成功だったんですね。
LC ああ、客の列はブロックの端まで続いていた。ニューヨークの、特にキッズの口コミはすごいからね。彼らはFacebookにアップしたり友だちにメールしたりして、すぐに情報が届けられた。それが1回目の展覧会だった。
それからパリでも開催して、そして今回は東京だ。実は自分が会場に姿を現すのは今回が初めてなんだ。みんなに来てほしいから、たくさんの取材を受けようと思って東京にやって来た。俺はこの街が大好きだし、知り合いも多いからね。(プリントセールは)今回が最後になる。今やるか2度とやらないかだ。なぜなら俺は常に前進し、新しい作品を作ったり、新しいことに挑戦したりしたいからだ。
―全部で何枚くらいの写真を持ってきたのですか?
LC ああ…レオが全部やってくれたから分からねえな。自分でも写真を見てびっくりしたよ。現像した時点では1枚につき2秒くらいしか見ていなかったからね。確かレオは1万5000枚あると言っていたような気がする。
そしてこれらの写真はすべて、俺がモノクロをやめて、80年代初頭にカラーで撮影するようになってからのものだ。暗室に入るのにうんざりしてしまってね。(作品をカラーにしたことに)美的な理由など何もない。アートのためでも何でもない。人生ずっと暗室で過ごしてきたから、ケミカルの臭いをそれ以上嗅ぎたくなかったんだ。もう十分だった。
今回の展覧会では1枚1万5000円で買える。税込価格だ。俺がこの企画をやる理由は楽しいから。もう金は十分にあるし、これ以上儲ける必要はないからね。
―どうして東京を最後の場所に選んだのですか?
LC 東京が大好きだから。最初のショーの時から俺とレオは東京に行こうと話していたんだ。本当は1年前に来たかったのだが、ひざを悪くしちまってね。さっき話した最初の手術は脊柱だった。脊柱が崩壊しかけて、俺はまるで老人のように腰が曲がってしまい、いつも下を向いていたんだ。手術は7時間かかって、死ぬと思っていた。でも死ななかった。
そして去年、東京でこのショーをやろうと思っていた時に、今度はひざの骨を悪くしてしまった。仕事を休むべきだったのだが、映画「Marfa Girl 2」(※2012年に公開された日本未上陸の「Marfa Girl」の続編)をテキサスで撮影したんだ。プロデューサーが資金を持ってきたから、やらざるを得なかったんだよ。でも脚の状態が悪くて、俺は常に転んでいて、おかげで腕を骨折してしまった。
今では俺の脊柱には14本のチタンのねじが入っていて、ここ(手首)には金属のプレートが入っていて—(手首のタトゥーを指差して)これは息子のバンドの名前だ。ワイルド・モヒカンズというパンクバンドをやっているんだ—2つのひざは金属とプラスチックでできている。1年前に手術を受けたんだ。
今は痛みもなくニューヨークの街中を歩き回れる。健康で幸せで気分も良い。だから今、この展覧会をやることにした。ニューヨークの後はパリと東京でやると決めていた。少し時間がかかったが、ようやく来られたというわけだ。
―東京で開催してくださってありがとうございます。
LC 質問しに来てくれてありがとう。これはネットに載るのか?
―そうです。
LC みんながこの展覧会について知るわけだな?
―はい。
LC 素晴らしい。みんながうわさを聞きつけてくれることを願うよ。好きなだけ写真を買ってほしいと思っている。キッズはクレジットカードなんて持ってなかったから、ニューヨークの展覧会は現金払いのみだったが、今回はクレジットカードもOKだ。好きな方法で払ってくれ。好きなだけ、何枚でも。
Interview Part 2につづく
photography : 照沼 健太 / Kenta Terunuma(AMP)
coordinator : Yasuda Pierre(BENJAMINTYO)
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