中目黒の眼鏡ショップ「ベリーでナード!!」

ある男がこういった。

「今日が人生最後の日だとしたら、今日やることは本当にやりたいことか。もしノーという答えが何日も続くなら、君は何か変えなくてはいけない」と。


僕は何年も続けてきた仕事を辞めるとき、この言葉を何度も頭の中で繰り返した。期間にして約半年。長いとも短いとも言えるその半年間で学んだことは、心の声はいつも正しく、それでいて無責任ということだ。


ひとつの大きな決断をしたある日、僕はソワソワした気持ちを落ち着かせるため、どこかで酒を飲むことにした。こういう日はJAZZバーのような薄暗い場所ではなく、もっと明るくポジティブなところがいい。真っ先に思い浮かんだのは、中目黒にある眼鏡屋だった。

東急東横線の中目黒駅を降りた僕は、目黒川から少し離れた場所にある眼鏡屋『ベリーでナード!!』に向かった。「なぜ眼鏡屋なのか?」と不思議に思うかもしれないが、理由はいたってシンプル。そこでビールが飲めるからだ。


店に到着すると、陽気な音楽にあわせて店主の江田さんが鼻歌まじりで眼鏡を磨いていた。彼は僕の姿を見つけるや、開口一番「うれしねぇ!」と屈託のない笑顔で歓迎してくれた。僕は「取材で近くに来たから」と照れ隠しの嘘をつき、「ビールもらっていい?」とハイネケンのボトルを指さした。

中目黒にある『ベリーでナード!!』は、2016年3月にオープンした小さな眼鏡屋だ。僕を出迎えてくれたのは「VERYNERD」の代表兼デザイナーの江田雄一。小柄な体型ながらもおばちゃんのように話し声は大きく、口ぶりは軽快、言葉選びはポジティブだ。どんなジャンルの人ともユーモアを交えながら話ができ、それでいて本心を悟られないテクニックを知っている。


江田さんは映画が好きで、僕とも趣味が近い。2人でウディ・アレンについて語り合うこともあれば、最近見たB級映画に粋なサングラスが登場していたこと、話題の邦画がクソつまらなかったことなど、そういったたわいもない話をするのがたまらなく楽しかったりする。

江田さんが自身のブランド「VERYNERD」を立ち上げたのは10年前の2006年。それ以前は、アパレルの輸入代理店業を行う会社に勤めていた。「当時仕事は部長と営業2人でやっていた」というその会社は、90年代のトレンドを見事につかみ、またたく間に大企業へと成長する。

江田さんはそこでドメスティックブランドの立ち上げに関わり、最終的に取締役にまでなるも、35歳のときに突然のドロップアウト。ちなみに、その会社は現在もアパレル業界では名の知れた優良企業として、いまでは260人の従業員を抱えるまでになっている。


以前、そのような話を江田さんから聞いたとき、僕は「そんな成功した会社を辞めるなんてもったいない」といったことがある。そのとき彼は「だって俺、バカだから」と大笑いしたあと、このように話してくれた。

「自分のときは、あのまま会社に居続けることのほうが不安だった。会社が大きくなり過ぎたというのもあるかも。当時はインディーなものが盛り上がっていく過程が楽しかったからね。あまり大きな声じゃ言えないけど、定時を過ぎれば毎日パーティー三昧(笑)。

でも、会社が大きくなっていくと、新卒も入ってくるし、社員教育もある。上司がバカばっかりしていると社員コントロールもしづらくなる。だから、少しずつ居心地が悪くなってきて、それでやめちゃった。あと先のことは何も決めずに、ただ辞めただけ。計画性ゼロ。ね? 俺ってバカでしょ(笑)」


真面目な話をしたかと思えば、最後は必ず冗談を言って場を和ませる。江田さんの会話には絶妙なバランス感覚で成り立っていた。

僕が「ロックな生き方だと思いますよ」と素直な感想を口にすると、彼は当時のことを振り返りながら「そんなかっこいいものじゃない。自分はしみったれてるから、どちらかといえばフォークだね」と話を続けた。


「雑にいうと、僕らはそういう世代なの。『なんとかなる』というのが頭のどこかに常にある。いまって社員になれないことが社会問題になってるけど、僕らの時代は社員になることが当たり前だったから、フリーターのほうが特殊で魅力的に思えた。よくわかんないけど、なんか楽しそうだなって。

いまでもよく覚えてるのが、当時の広告に『1枚のTシャツを買うよりも、1枚のTシャツを売ることのおもしろさを知った』みたいなコピーがあって、自分もそういう生き方に憧れちゃった。社会がそういう特別な人を良しとする時代だったから、自然とそういう考えが定着したんだと思うよ」

VERYNERDは、“特別な人”や”個性的な”という意味を持つ「NERD(ナード)」という言葉をブランドコンセプトにしている。彼が「ブランドに自分自身を重ねている」と語るように、キメキメのかっこ良さではない、どこか隙のあるリラックスした雰囲気が魅力だ。


「サングラスをかけてオラオラ感が出ちゃうのはダメね。うちの眼鏡に関していえば、かけるだけでその人をホワッとさせたい。かけることで優しい顔つきに見える。そんなサングラスがいいんです」

VERYNERDは素材から製造までの全工程を、福井県鯖江市の工房で行っている。職人とのコミュニケーションの中から眼鏡づくりを学んだという彼は、「おもしろい色や珍しい柄とか、素材をフックアップする部分、そういうところには全力をかけている」と話し、工房のある鯖江市には定期的に足を運び、他にはない柄やカラー展開にも果敢に挑戦している。

ちょうど2本目のビールを飲み干したタイミングで、何人かの客が入れ替わりで店の中に入ってきた。店内は6畳ほどの小空間のため、他に客がいるときは大声でバカ話をするわけにもいかず、そういうときは眼鏡を見るフリをしながら客が帰るのを待つしかなかった。


江田さんが接客をしている間、隅に置かれたある眼鏡に目が留まった。ダークブランのべっ甲フレームで、レンズがほんの少しだけブルーがかった眼鏡だ。

見た目の印象は「バディ・ホリーよりもアクが弱く、ビル・エヴァンスほど堅苦しくない」といった感じだが、かけてみると案外悪くない。鏡に映る自分を見ながら「いいじゃん」と、ほとんど独り言のようにつぶやいた。それを見て、江田さんが僕に話しかけてきた。


「その眼鏡、レンズにちょっと色はいってるのがポイントね」

「でも、色付きってすぐに飽きちゃいそう」

「いいんじゃない、飽きても。色に飽きればレンズを変えればいいだけ」

「でも、それっていいの? せっかくこれで売ってるのに」

「ノープロブレム。新しいレンズに変えて、新しい世界が楽しめるならそのほうがいいに決まってる。過去に縛られる必要なんてどこにもないんだから」

彼はそういうと、僕の肩をポンと叩いて最後にこう付け加えた。


「人生は短い。生きてるうちに謳歌しないと、喜びを」

結局、僕はその眼鏡を買うことにした。江田さんのセールストークにやられたというのはあるが、それをかけているだけで不思議と新しいことにチャレンジできそうな気がしたからだ。

僕は接客をしている江田さんの邪魔にならないよう短めの挨拶を済ませ、そして店をあとにした。


すでに夕暮れ時ということもあり、目黒川沿いの店に少しずつ明かりが灯りはじめていた。僕は駅に向かう途中、買ったばかりの眼鏡をかけてみた。淡いブルーのレンズは、グラデーションがかった空をいつもよりノスタルジックな色彩に変えてくれた。


人生は短い。生きてるうちに謳歌しないと、喜びを。


僕は夕日を眺めながら、さっきの言葉の思いだしていた。鮮やかなオレンジ色の光が目に沁みた。何もない澄み切った空を、飛行機が真っすぐ横切っていくのが見えた。

この日こそが、僕の人生を変える1日になるかもしれない。本当にそう思えた瞬間だった。


Photographer:尾田和実 / Kazumi Oda


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