永遠とは何か。欅坂46「二人セゾン」が描く生と死と恋

欅坂46「二人セゾン」をあなたはもう聴いただろうか?


ザ・ラーズの名曲“ゼア・シー・ゴーズ”を思わせる美しい楽曲、バレエを取り入れたダンス、少女性とモラトリアムをモチーフに生の祝福を描くMV。そのどれもがひとつとなった、デビューシングル「サイレントマジョリティー」を超える名曲だ。

「ミュージックステーション」をはじめ、数々の歌番組で披露されるなか、その話題は広がりセールスは過去最高。MVもすでに再生回数600万回に迫る勢いだ。


乃木坂46「君の名は希望」との類似

すでにTwitter等では指摘されているようだが、「二人セゾン」のストーリーラインは、姉妹グループである乃木坂46の代表曲「君の名は希望」とほぼ同じ。


〈自分の世界を作りそこに閉じこもっていた主人公が、他者と出会い心を開き、世界の輝きに気付き変わっていく。そしてそこには生きる歓びの実感とともに、別れの予感も孕んでいる〉という王道だ。


ただし形式が違う。「君の名は希望」はいじめられている、もしくは存在感のない男子学生が主人公であるという状況設定があり、彼の独白形式で歌詞が綴られていた。それに対し、本作はそうした具体的な状況や情景描写のない“ポエム”となっている。


その形式の違いが「二人セゾン」と「君の名は希望」の内容に小さな、しかし無視できないほど大きな違いを生んでいるのだ。


二人とは

そのヒントは「二人セゾン」というタイトルにこそある。セゾンはフランス語で季節。二人の関係性と成長を季節の移り変わりをモチーフに描いていることは、なんとなく聴いても理解できることだろう。だが、この二人とは? 君と僕とは、いったい誰のことなのか?


ここでいう“二人”とは映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の碇シンジと渚カヲルのことだ。もちろんこれは暴論だが、一旦これはこれとして飲み込んでいただきたい。

太陽が戻ってくるまでに 大切な人ときっと出会える 
見過ごしちゃもったいない 愛を拒否しないで
(欅坂46「二人セゾン」)

この楽曲を聴いていて、上記のラインに対して唐突で不遜なリリックだと感じるリスナーは少なくないだろう。しかし、この「二人セゾン」のリリックには複数の視点が入り混じっていると考えたらどうだろうか?


そのヒントになるのがシンジとカヲルなのだ。


永遠とは

そう、つまりこのラインでは、視点が碇シンジから渚カヲルに移っているのである。“愛を拒否しないで”という言葉の強さから誤解されがちだが、ここでは“君”がこれから「大切な人ときっと出会える」と予言しているのだ。決して自分の愛を受け入れてくれとわがままを言っているのではない。相手を思いやっての言葉である。


もちろん、単純に変わっていった君を思う言葉かもしれない。もしかしたら友人を励ましている言葉かもしれない。しかし、これは死者(カヲル)からのメッセージと捉えてもなんらおかしくないリリックでもある。


つまるところ、この原稿におけるシンジ=生者、カヲル=死者と捉えてもらってもいい。そう考えると、これは作詞者の秋元康の作品で言えば、乃木坂46「僕がいる場所」ですでに半ば描かれているモチーフでもある。

ザ・ラーズ「ゼア・シー・ゴーズ」では、自分のもとを去った“彼女”に対してこう歌われる。

No one else could heal my pain.(他の誰かじゃ僕の痛みは癒せないんだ)
(ザ・ラーズ「ゼア・シー・ゴーズ」)

だが、去ってしまった“君”は、はこう思っているかもしれないのだ。

シンジ君は、安らぎと自分の場所を見付ければいい。 
縁が君を導くだろう。 そんな顔をしないで。 また、会えるよ。シンジ君。
(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』)


花のない桜とは

花のない桜を見上げて 満開の日を思ったことはあったか? 
想像しなきゃ 夢は見られない 
心の窓 
(欅坂46「二人セゾン」)

そしてCメロでは再び視点が変わる。僕でも、君でもない、第三者。これは秋元康本人からの説教だと考えてみても問題ない。決して揶揄しているわけではなく、このラインには“僕と君”だけの閉じた世界から、視界が開け、リスナーに当事者意識を芽生えさせる効果を持っている。つまり主人公と自分のシンクロだ。


また“花のない桜”というワードから否応なしに連想するのは宇多田ヒカル「桜流し」だろう。

開いたばかりの花が散るのを
「今年も早いね」と残念そうに見ていたあなたは
もし今の私を見れたなら
どう思うでしょう
とてもきれいだった
あなた無しで生きてる私を
(宇多田ヒカル「桜流し」)

この“花のない桜”というフレーズは、つまり「二人セゾン」が『エヴァQ』以降の世界であるというヒントであり、「『シン・エヴァ』がめちゃくちゃ楽しみ」という秋元康の気持ちを代弁している重要な箇所である(←一応笑うとこですが半分マジ)。


君はセゾン 僕もセゾン 

そして、Cメロから大サビに移る最後のリリックで、この楽曲の状況設定における核心が明かされる。

春夏秋冬 生まれ変われると
別れ際 君に教えられた 
(欅坂46「二人セゾン」)

それまで散々匂わせていた“二人”の別離が、ここで初めて明示されるのだ。


“二人の季節”の終わり。それはもしかしたら転校や転勤、卒業によるものかもしれないし、死によるものかもしれない。どんな“二人”も、最後にはどちらかの死によって別離を迎える。永遠など存在しない。


…いや、永遠は存在する。

一瞬の光が重なって折々の色が四季を作る
そのどれが欠けたって永遠は生まれない
(欅坂46「二人セゾン」)

欅坂46屈指の表現力を持つボーカリストである長濱ねるを筆頭としたメンバーによって歌われる2度めのBメロが描く“瞬間と永遠”の関係こそが、この「二人セゾン」の本質だ。


『エヴァQ』においてロンギヌスとカシウス、対の槍をもってエヴァンゲリオン第13号機とともに世界を修復する“神”になろうとしたシンジとカヲルを思い出してみてほしい。そのエントリープラグ内、シンジとカヲルの背後に“∞”の模様があったことにお気付きだろうか。


そして「二人セゾン」イントロにおいて欅坂46のメンバー全員がふたつの円を描くように跳ねるダンスを思い出してみてほしい。


そう、そこで描かれているのは“∞”。つまりインフィニティ、永遠なのだ。

思い出はカレンダー
(欅坂46「二人セゾン」)

振り返れば、そこには数々の“一瞬”が、思い出が、カレンダーとなり蓄積されていく。

魂が消えても、願いと呪いはこの世界に残る。
意思は、情報として世界を伝い、変えて行く。
いつか、自分自身の事も書き換えて行くんだ。
(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』)

二人が出会う前の日々も、ともに過ごした日々も、すれ違った日々も、どれひとつとしてムダではない。

僕もセゾン
(欅坂46「二人セゾン」)

何もかもいつか消え去ってしまう日が来るだろう。君が去ってしまったように、僕もいつかこの世界を去る日が来る。その瞬間が、死が、静かに、しかし確実にいつかやってくることを感じるからこそ、今を生きる。


瞬間を信じること、感じること、それだけが永遠を生む。


だからもし、今そこに君がいるのなら、しっかりと手を握らなくちゃいけない。


「二人セゾン」が描くのは、救済の物語ではなく、生の祝福なのだ。

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