「僕の洋服で、愛が増えたら」 謎のブランド「SYU.」デザイナー小野秀人インタビュー(前編)

「タクシー乗って、食べたいもの食べて、好きなもの買って、遊び放題みたいな状態でした。でも、あるときからそれに幸せを感じなくなってしまって。別にお金があるからと言って、モテるわけでもなく(笑)」


昨年デビューしたばかりの新進デザイナーズブランド「SYU.」を手がける小野秀人は、そのユニークなバックグラウンドがコレクションに大きな影響を与えている。芸能活動、ストリートで話題をさらったソックスブランドの仕掛け人を経て、満を持してファッション界に正面から切り込むコレクションを発表。今季で3回目のシーズンとなる彼に、これまでのキャリアやデザイナーとしての野望を等身大の言葉で語ってもらった。

21歳のときメジャーデビューして
25歳のときダンスをやめました


─バックグラウンドを教えてください。

「僕は小学校5年生からダンスをやっていたんです。テレビ番組を見てダンスに興味を持ったので、そのときは芸能人になりたかった。それで地元のダンススクールに通いはじめて、15歳のときに芸能養成コースに入りました。そのときに一緒だったのが、清水翔太、松下優也、SHUN、SCANDALとか。彼らとは長いこと一緒に訓練してましたね」


─その頃から洋服が好きだった?

「スクールの発表会では衣装を工夫するので、それから服が好きになったんです。17歳からはダンスのインストラクターとしてバイトも始めて、週に2~3万はもらえるから、そのお金で毎週スニーカーを買ってました(笑)。入口は完全にストリートで、HECTIC、MASTERPIECE、Supreme、このあたりのブランドしか着ないっていう感じでした」


─ダンスはいつまでやってたんですか?

「21歳のときに、当時所属してたグループでメジャーデビューしたんです。でも大人の事情で解散しちゃって、事務所には残れるけど俳優になるかもしれないと言われた。それは違うなと思って、芸能はやめてしまったんです。で、大阪でダンスインストラクターをしてました。その後、東方神起のバックダンサーのオーディションを受けて最終まで残ったことで、上京してきたんです。でも落ちちゃって(笑)。24歳のときだったんですが、またイチから東京でダンサーとしてのキャリアを築いていくとなると5年はかかると考えて、ダンスはきっぱりやめました」

アメアパに入って

販売で売り上げ日本一に


─ダンサーのキャリアを完全に捨てて、洋服の世界に入った。

「そうです。その頃、American Apparel(以下アメアパ)が、東京ガールズコレクションに出演することになって、ダンスパフォーマンスをやると。アメアパで働いてる女性が僕のことを知ってて、ダンサーを探してるから出ないかと言われたんです。それでステージに参加したら、当時PRをやっていた方に『アメアパの面接受けてみたら?』と言っていただいて。それで面接を受けて、採用してもらいました」


─アメアパではどんな仕事を?

「店頭で販売スタッフとして働いていたんですが、入って2日目くらいで僕の売り上げが日本一になったんです(笑)。何でかっていうと、アメアパって外国ノリが強いから、スタッフがみんなゆるい感じなんですよね。接客なしの自由な雰囲気で、お客さんもそれを楽しみに来てるみたいなところがあった。でも、もう少し洋服に詳しい人が欲しいっていうお客さんもいて、それが僕だったんです。それから2年ほど働きましたね」

アメアパ時代の繋がりを活かして
立ち上げたソックスブランド


─アメアパをやめてからは、ついにオリジナルを。

「アメアパ時代に知り合った友人と、ソックスが面白くないから作りたいねっていう話になったんですよ。で、グラフィックをのせてメッセージ性を持たせたら面白いんじゃないかって。3年前くらいってパンツの丈も7~8部丈が増えてきて、ソックスを見せる時代だった。それでSTYLE ICON TOKYOっていうブランドを立ち上げたんです」


─最初に作ったのはソックスじゃなく洋服だったんですよね。

「最初に何かフックになるものが欲しいなと考えているときに、アメアパのスタッフがみんな口癖で“FUCK”って言ってるな、と。それって僕たちが使う“クソ面白いね”みたいな感覚。ちょうどスターバックスで飲んでいたドリンクカップ見て、これをサンプリングしたら面白いかもと思ったんです。ミルクの量やトッピングの種類を、チェックボックスに書き込むじゃないですか。それを”FUCK”に応用して、”you”、”me”、”off”というチェック欄を作ってグラフィックにして、TシャツやスウェットにプリントしてInstagramに載せたんです」


─それが一気に広まった。

「小松菜奈ちゃん、emmaちゃん、佐久間由衣ちゃんとか、モデルの子たちがしょっちゅうアメアパに来てたんですよ。男が僕ひとりだったから覚えられやすくて、SNSでも繋がって。それでいろんな子と知り合いになったので、“FUCK”のアイテムをポストしたときに、MONAちゃん、IRUKAちゃん、真間玲奈ちゃん、谷口蘭ちゃんとかが欲しい!って言ってくれて、身内限定で作って売ってたんです。当時はインフルエンサーっていう概念もなかったんですけど、安くする代わりに写真を撮らせてもらってInstagramに載せて。そしたら彼女たちもアップしてくれて、そのアイテムがめちゃくちゃ売れた。受注生産で作って、年間で400万くらいの売り上げになったのかな? 一回に作るのは20枚と決めて、手に入りにくくすることで希少価値をつけたんです。その後も1年半くらいずっと売れ続けたことで、資金を作ることができた。それで、水面下で動いていたソックスだけの展示会を開催したんです」

─ソックスブランドとしては成功したんですか?

「最初の展示会では“FUCK”のアイテムも即売で買えますよ、という形にして、SNSだけで告知して小さなスペースで2日間だけやったんです。狭いから制限をかけないと入れなくて、7時間ずっと人が並んでいるような状態。結果、2日間で330人以上来てくれた。それからだんだんメディアにも出るようになって。2回目の展示会も成功して、当時はDIESELでバイトもしていたので、月に30~40万は稼いでました」


─本当に、ストリートでヒットしたっていう感じ。

「タクシー乗って、食べたいもの食べて、好きなもの買って、遊び放題みたいな状態でした。毎月10万買い物しても、20万は貯金できた。でも、あるときからそれに幸せを感じなくなってしまって。別にお金が少しあるからと言って、彼女ができたり、モテるわけでもなく(笑)。変に真面目なところもあって、結局お金を使いたいと思うのは服だけだったんです。それに、Tシャツやスウェットのプリントものを売っていくっていうことにも徐々に限界を感じていて、悩んでました」


後編に続く)


photography : 伊藤元気 / Genki Ito(symphonic)

coordinator : 栗田祐一 / Yuichi Kurita(NEWTHINK)

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